開頭手術断念の経緯

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決断

会社の人が福岡空港まで付き添って、出迎えに来ていた弟へとバトンタッチしてくれた。
転院先は自宅から1キロほど離れた大場脳神経外科病院である。ここでは脳の中にできた血腫を取り除かなければ手足は動かないだろうと言われた。頭の中を手術するって、いったいどういう風にするのかと思い、医者に尋ねた。

「まずコンピュータで正確に出血の部位を割り出し、ドリルで頭蓋骨に穴を空け、細い管を差し込んで血腫を吸い出す」

というのである。これで血の塊に圧迫されていた神経が開放され、手足が動き出すかもしれないと説明を受けた。では、元通りの体になるかというと、それはなんとも言えないと院長は腕を組む。出血の部位は視床下部といって脳のかなり深部だと沖縄の病院では説明を受けた。だから、手術は出来ないんだ、と言うのがM院長の見解であった。

大場病院の院長は、久留米大学医学部の講師もしているとかで、筑後地方では手錬れの、脳外科医として知られていた。だから、手術を受けたらどうかと親父が言った。母や弟妹の意見も同じという。

頭の中に管を差し込むという点が本人とすればとても気がかりである。脳の深部に管を差し込むのであれば、その途中で正常な脳細胞にも触れることになるかもしれない。医師の手元が狂って正常な脳細胞が傷付くことだってありうる。手術に失敗して寝たきり状態になる可能性だってあるかも知れない。夜中にベッドの上でそういうことを考えていると、自然にまぶたの裏から熱いものがにじみ出、次から次へとあふれてくるのをこらえきれなかった。

麻痺は痙性が非常に強い。足は棒のように伸びたまま、硬直して全く動かない。手もL字型に曲がり指はウンともスンとも言わず、握りこぶしの状態だ。左半身には感覚が全くない。手足が付いているという実感すらしない。このままではたぶん満足に歩けるようにはならんだろうと医者は言う。
理学療法士の意見も医者と同様であった。若いので寝たきりになることはないだろうが、重い装具を付けて、体をひねるように歩く異常な歩行になる、というのである。ひょっとしたら車椅子になる可能性だってあると告げられ肝が萎えた。

手術を受けるか止めるかという決断ではずいぶん悩んだ。沖縄の病院代の支払いはとりあえず現金で支払うということになっていたが、それ以降のことは労災にするのか私病とするのかで揉めていた。中竹土木からは誰も来ず、佐多建設の工事部長の田中さんが交渉相手になった。こっちの代理人は弟である。

繁雄は二流の夜間大学ではあるが、アルバイトしながら自力で卒業した。今は久留米の小さな商社に勤務し、所帯も持っていたので交渉人に抜擢された。そして

「労災の申請は元請にしかできない、中竹さんに労災の申請をしてもらうように頼んで見る」

と田中さんは言った。労災が認定にならない場合、佐多建設は社会保険を作り、それで病院代を支払う。従って労災の結果が出るまでは入院費の支払いは待ってもらうこととした。

結局、手術の承諾書にサインをする勇気がでなかった。そして、リハビリにかけようと決心したのである。たとえ血の小便を流そうとも、訓練に耐え、自分のことは自分でできるようになろうと、心の中で誓いを立てた。そういうわけで次はリハビリ専門病棟を持つ、国立療養所筑後病院へ転院することになった。

自分史「せからしか」より一部抜粋

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まこっちゃん

まこっちゃん

元自動車会社工員、配管工、自動車洗車場、呉服担ぎ屋、土木作業員

昭和61年、琉球大学キャンパス内で架橋工事中に突然脳内出血に倒れる。
以降左半身不随の後遺症が残り1種2級の身体障碍者となる。

昭和64年(平成元年)リハビリセンターで入所中に知り合って交際していた女性職員と入籍。
福岡県粕屋郡古賀町(現古賀市)へ転居。彼女が働き、家事全般は夫がする暮らしを始める。生活費は折半。いわゆる「主夫」となって今に至る。

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