OTとPTどっちが美人が多いか

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OTとPTどっちが美人が多いか。経験ではOTだと思う。国立病院のPTにまるで色気のない男のような女PTがいた。OTには意識高い系の女が多かった。社会福祉の理念に燃え、まるで修道女のような雰囲気を漂わせていた。付き合うならOTだが、我が妻(め)とするにはいささか抵抗を感じた。家にいるときも四六時中高尚な話ばかりもしてはいられない。ちん〇も立つし、酒も飲みたい。ボートもやりたい。そういうことを考えると気持ちが萎えた。

難病専門の病院にいたときである。同じ部屋にはギランバレー症候群や筋ジストロフィー、ベーチェット病、パーキンソン、ハンチントンとか名前もしらない病名の患者が数多いた。皆いつも半泣きだった。ある日、静岡医大からインターンの女医が僕と隣の男の主治医になった。というよりも要するに若手医者の研修にされるわけだ。

女医が言った。病気の正体がわかっているからいいじゃない。他の人はそうじゃない。原因も治療法もわかっていないのよ。とまるで、メディカルチーム レディ・ダ・ヴィンチの診断に出てくる吉田羊みたいな感じである。
いくら病気の進行が止まっているからと言っても、半身不随の体じゃ、得意の土江の仕事はおろか重機のクレーンだって乗れない。こんな体でどうやって飯を食っていくのかを考えると、思案はひとつ女の世話になることだ。女医を我が妻(め)としたら…

ある日女医の診察を受けた。
「先生、仕事が終わったらコーヒーでも飲みにいきませんか」
厚顔なのは承知で切り出した。女はフンと笑って相手にしてくれない。しかたがないので、夕方帰路を待ち伏せた。病院の近くの駅から福岡へ帰るのだ。

「先生、ちょっと待ってよ。コーヒーぐらいよかろうもん」
女医は無言で走るように逃げた。分回し歩行の上、重い短下肢装具を付けているので追いつけない。やがて女医はどこかへ行ってしまった。研修中はいろいろな病院を回るようだ。
「医者はヤッパ、無理か」

<部屋名主>
35年前。リハビリ専門の国立病院にいたときである。30代の男性が大部屋に入院してきた。早速、部屋名主の吟味が始まる。新参者はなんの病気か家族構成、職歴など細かに聴かれる。総勢8名の入院患者が聴き耳を立てる。
「筋ジストロフィーです」
スモン病で10年も入院中の部屋名主が、したり顔でため息をつく、
「そりゃーやおいかんのう。筋ジスなら後で10棟に部屋替えさられるばい」
新参者の筋ジスがオイオイと泣き出す。
「これからどんどん病気が進行して寝たきりになるとでしょう…」
部屋中がシーンとなる。
頸椎損傷で手首のシビレを訴えていた、大工の野口がベッドの下に隠していた五合瓶を取り出した。
「消灯になって、巡回が終わってからみんなで飲もう」
そういうと野口は処置室へ行って検尿コップを3つ持ってきた。みなで回し飲みした。
数日後僕は医局へ呼び出され主治医の今西から退院を迫られた。
「部屋で酒飲んだでしょう…」
原因不明の病気で入院していた男が医者につけ口をしていたのである。
親父がマツダの軽トラで迎えに来たので自宅に戻った。これから自分はどうなるのだろうか不安で…。

<病院に居候した女>

95年。福岡東病院の通所リハに通っていた。足の緊張が強いので反張が酷い。アキレス腱延長手術を受けるため入院した。でっかいブスを21日巻かれて身動きできずに大変な思いをした。
ギブスを早くとってくれと外科部長の松ちゃんに懇願したが、
「ダメダ。21日はギブスははずせない。早くとると裂きイカのようにアキレス腱が裂ける」
「…そうですか」
ため息をつくしかなかった。そのころオウムのサリン事件が起きて、世間は大騒ぎとなった。でかいギブスを巻かれると眠れない。9時消灯なのでイヤホン付けてテレビごと毛布をかぶせて潜りながらテレビを見ていた。それでも眠れずまんじりと夜明けを待った。
配膳車の音がして朝飯だと喜んでいるとプーンと臭い匂いが漂い始めた。だれかがうんこをした。そんなこんなで21日目が来て処置室へ連れて行かれた。松ちゃんがゴーグルに防塵マスクをして待っていた。
ベッドに寝かされると松ちゃんが近寄ってきた。手に工事用のサンダーを持ち、スイッチを入れるとギューんというすごい音がして刃が回転する。石膏で固めたギブスを切っていくのである。足が一緒に切れるのではないかと冷や冷や物であった。
そんな折、事件が起きた。若い女が窃盗で捕縛された。看護婦のロッカーから金を盗んだ容疑である。粕屋警察書に連行され刑事の吟味がなされた。
「半年も病院に潜り込んで看護婦さんのロッカーから金盗んで、売店で食い物買い食いしたとか。こりゃあ。たまがった」
「すんまっせん。仕事につかれないですけん」
女は蚊の鳴くような声で白状した。

<体は連動している>
最近特に感じるのは、歩く時、人の手足は連動しているということ。
当初、歩行訓練を頑張ればそのうちに楽に歩けるようになるだろうと希望的な思いでいた。同じ片麻痺でも。ある程度の動きがある軽度のマヒならばリハビリのやりようもあるが、中以上の重いマヒになるとPTやOTもどうしていいかわからないと頭を抱えた。

半年もすると、もうこれ以上回復の見込みはないから出て行ってくれと。事務係から入院費用の請求をされることになる。今はどうだか知らないが、30年前はそうだった。家族は半身不随の息子を家に連れて帰ってもどうしていいかわからない。かと言って昔の農村の中風患者者がそうだったように、小屋にれて置くこともはばかられる。当時パソコンのことをパーソナルコンピュータという言い方が始まった。

親父に軽トラに乗せられて、最寄りの福祉事務を門をたたいた。脳卒中専門のリハビリ施設があるので、そこに入れと言われて1年半入所した。白い近代的な建物と若いスタッフらを見て、ここならマヒが治るかもしれないと密かに思っていたがダメだった。マヒが重いと訓練のしようがない。自主訓練を頑張るしかないのである。それでも10年も歩く練習をすれば改善があるだろうとも思っていた。しかし、20年たっても状況は変わらない。

ある時、手を降って歩けと言われたことを思い出した。そんな事とてもできなかったが、腰をひねるようにすると手もツラれて動くことに気付いた。足で地面を蹴ったら手は前に出る。手が前に出ると足は地面を蹴る事をリズミカルに繰り返している。4本の手足が脳で絶妙にコントロールされ歩行が成り立っている。それと歩行は体全体を使う方が楽なのだと実感する。

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まこっちゃん

まこっちゃん

元自動車会社工員、配管工、自動車洗車場、呉服担ぎ屋、土木作業員

昭和61年、琉球大学キャンパス内で架橋工事中に突然脳内出血に倒れる。
以降左半身不随の後遺症が残り1種2級の身体障碍者となる。

昭和64年(平成元年)リハビリセンターで入所中に知り合って交際していた女性職員と入籍。
福岡県粕屋郡古賀町(現古賀市)へ転居。彼女が働き、家事全般は夫がする暮らしを始める。生活費は折半。いわゆる「主夫」となって今に至る。

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