薬王寺と立花道雪と菰野増時

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天正13年(1585年)5月初め、立花道雪は、筑後の国、御井郡北野村の陣において中風にかかり9月11日死んだ。73歳であった。

道雪は若い頃(35歳のころ)に下半身不随になったとされる。時期に関しては正確には不詳であるが、『大友興廃記』では道雪が故郷の藤北で炎天下の日、大木の下で涼んで昼寝をしていたが、その時に急な夕立で雷が落ちかかった。枕元に立てかけていた千鳥の太刀を抜き合わせ、雷を斬って涼んでいたところを飛び退いた。これより以降、道雪の足は不具になり、出陣も駕でなければかなわなくなった。されど勇力に勝っていたので、常の者・達者な人より優れていた。さて千鳥の太刀だが、雷に当たった印があった。これより千鳥を雷斬と号するようになった、とある。

こうして障害者となった道雪であるが、家臣に手輿を担がせて自らは輿に座り、2尺7寸(約82センチ)ばかりの刀と鉄砲1挺、それに腕貫をつけた長さ3尺(約1メートル)の手棒を常に側に置いた。手輿の周りには長い刀を持った100人ばかりの定衆と名付けた若者が、徒歩で固めていた。戦いが始まると、その若者に輿を担がせ、敵が間近になると手棒で手輿の縁を叩いて自ら「えいとう、えいとう」と大声で音頭をとり、敵陣に突っ込ませた(出典:ウイキペディア)

若いころ大木の下で雨宿り中に雷に打たれて片足が萎えていたので、戦場には家来に輿を担がせて出陣したという。戦にはめっぽう強く、雷名は遠国にまで及び、武田信玄に、一度は会ってみたい人物とまで言わしめたほどの戦巧者であり、主君の大友宗麟に諫言できるほどの器量人であった。
豊後の守護大名大友氏の一族戸次氏の出で、本来は戸次鑑連というが、立花城代を命じられ、下克上の激化に伴い近隣を切り従えて戦国大名へと変貌し立花氏を名乗る。男子がおらず娘の誾千代に高橋紹運の嫡男統虎を養子に迎え、立花合戦で統虎は戦巧者ぶりを豊臣秀吉に認められ、秀吉の九州平定に伴い、筑後柳川で12万石の大名となる。

自分が死んだら陣地に埋めよ、立花城へ返してはいけない。道雪はそういう遺言を残していた。
立花の家臣たちは、遺言通りに陣地に埋めようという意見と、立花城へ戻すという意見に分かれ殉死するという家臣もいた。
殉死するという者たちを、それでは若殿の統虎殿が困る。と重臣の薦野三河守増時(こものみかわのくにますとき)が家臣らを説得し、立花城へ向かい、十時摂津(とときせっつ)と菰野三河が意向を訪ねた。統虎の意向は、
「道雪公の遺骸を急いで立花山へ運べ」
というものだった。9月14日の朝、由布雪下、小野和泉を先頭に、無事立花城に帰陣した。糟屋郡筵内にある薬王寺の、ぼう亭和尚を招請して立派な供養を営み、立花城下にある梅が岳に埋葬した。
薬王寺は現古賀市の山沿いにある。薦野三河守増時(4千石)の城も古賀市菰野にある。薬王寺には温泉があり数件の旅館があるが経営不振で廃業する旅館を古賀市が5200万円をかけてレンタルオフィースへと改装する計画が議会を通過したそうだ。しかし、意を唱える意見もFBで報告され、事業のあらましを知った。

ただの障害者である僕がとやかく言えることではないが、薬王寺と文字に反応した。薦野三河守増時は島津氏の侵略に耐えかねた大友宗麟が大阪まで出向き、秀吉に調停を依頼した。なかなか聞き入れられずに、秀吉出兵の相談に大友宗麟の名代として薦野三河守増時は大阪まで請願に出向いている。
そういう歴史的な背景を思い描いた。

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まこっちゃん

まこっちゃん

元自動車会社工員、配管工、自動車洗車場、呉服担ぎ屋、土木作業員

昭和61年、琉球大学キャンパス内で架橋工事中に突然脳内出血に倒れる。
以降左半身不随の後遺症が残り1種2級の身体障碍者となる。

昭和64年(平成元年)リハビリセンターで入所中に知り合って交際していた女性職員と入籍。
福岡県粕屋郡古賀町(現古賀市)へ転居。彼女が働き、家事全般は夫がする暮らしを始める。生活費は折半。いわゆる「主夫」となって今に至る。

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