ヤッホーと孫さん

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下の写真を見るとヤッホーの孫さんを思い出す。ソフトバンクグループを一代で財閥に仕立て上げた孫正義氏のことである。ヤッホーとはYahooと読めずにヤッホーと読んでしまった。パソコン黎明期のころ地方の書店でもパソコン雑誌が店頭に並び始めた。ワープロ専用機の時代でパソコンがいらえる人は少数派であった。

ヤフーと読めずにヤッホーと読んでしまう人は少なからずいたようで、パソコン雑誌の編集者らが「ヤッホーと読んでしまった。などという小見出しをつけては揶揄していた。中卒の悲しさ、英語が全く読めない自分は戦々恐々としていた。Yahooと入力するのが面倒なので自分の中ではヤッホーで通している。

さて、なぜ孫さんが気になるかというと、昔、僕が21歳のころパーフェクト処理というものをすれば1年間ワックスかけ不要。そういう洗車場がフランチャイズで流行った時期がある。そこの洗車場で働いていた時のお客さんで久留米のラッキーパチンコの社長が所有するロールスロイスが定期的にメンテナンスに来ていた。そのラッキーパチンコの社長が孫正義さんのお父さんということがわかった。

そのころ(1972年頃)孫さんは久留米附設高校に通っていて、16歳だったろう。そのころ僕は21歳で洗車場でモクモクト働いていた。当時、日本マクドナルドの創業者の藤田田(ふじたでん)さんがユダヤの商法という本を出され大変な人気となっていた。洗車場の経営者もこの本にかぶれて、ウンチクをさんざんに聞かされた。

孫さんは、渡米を決意するにあたり、この藤田田さんの元を訪ね、米国で何を学ぶべきかを聞きに行ったという。藤田さんは九州の田舎からきた高校生には会おうとせず、何度も面会を断った。しかし、それでもめげずにやってくる久留米の高校生を社長室へ招き入れ、
「米国で何を学べば良いか」
の問いに対し、
「コムピューターがよかろう」
との回答を与えた。

以降の孫さんの活躍は、世間周知の通りである。

孫さんを知ったのは武村健一がフジテレビの番組でMCを務めた。これからはインターネットの時代だ。その為には低料金で接続できるシステムを作らねばならない。そういう内容のテーマで語る中で、紹介された人物が孫正義だった。NTTが独占していたメタル電話回線を利用して安価なシステムの構築を研究しているという触れ込みだった。

風貌がどことなく当時の皇太子殿下(現上皇様)に似ているなあ。これが正ヨッシャンの第一印象だった。鉄壁の守りの巨大企業相手にどこの馬の骨ともしれない男が挑むなどホラ吹いている。そんな感じだった。

当時NTTは夢の通信と言われていた光通信の研究開発途上であり、ISDN回線が最先端だった。それからしばらくするとヤフーBB(ADSL)という物が現れた。低額料金3000円程度という触れ込みである。しかしポット出の企業だからおいそれとは加入しようとしない。
駅前やスーパーの前にギンガムチェックの派手な服をきてのぼり旗を持って、ちんどん屋よろしく隊列を組んで練り歩き、スーパーの入り口で客を捕まえてはヤフーBBへの加入を迫るのである。

ある日ダイエー古賀店(現ドラッグコスモス)から出ようとするところを若い男に呼び止められた。さんざんにセールストークを聞かされたがいらないと断った。しかし、さらにしつこく迫られた。当時NTTのISDNに加入していたが、高額な費用でもあり安価な料金に興味もあったのでヤフーBBに切り替えることを決断した。

それからはケータイ電話にも進出し、あれよあれよという間に世界的な巨大企業に育ってしまった。まるでジャックと豆の木をほうふつとさせるサクセスストーリーだ。

*イングランドのアルフレッド大王時代のある日、ジャックは母親に言われて牝牛を市場へと売りに行く。しかし、途中で会った老人の魔法の豆と牝牛を交換してしまう。家に帰ると怒った母親により豆を庭に捨てられるが、次の朝にその豆は巨木へと成長していた。ジャックは豆の木を登り雲の上にある巨人の城にたどりつく。

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まこっちゃん

まこっちゃん

元自動車会社工員、配管工、自動車洗車場、呉服担ぎ屋、土木作業員

昭和61年、琉球大学キャンパス内で架橋工事中に突然脳内出血に倒れる。
以降左半身不随の後遺症が残り1種2級の身体障碍者となる。

昭和64年(平成元年)リハビリセンターで入所中に知り合って交際していた女性職員と入籍。
福岡県粕屋郡古賀町(現古賀市)へ転居。彼女が働き、家事全般は夫がする暮らしを始める。生活費は折半。いわゆる「主夫」となって今に至る。

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