32年目の現実

スポンサードリンク

<32年目の真実>
水泳して風呂入ってロッカーで着替えていると、プールで顔なじみの片足が不自由な障碍者といっしょになった。ちょうどデジカメをもっていたので、麻痺足を写してもらった。麻痺足の膝が変形し、ふくらはぎの筋肉がゲッソリしているのがよくわかる。32年も足首を動かしていないからねえ。人間の体は使わないでいるとだんだん退化するという要不要の法則に支配されているのがよくわかる貴重な2枚。反張膝なので膝がロックされている。

動画は分回し歩行の様子を捕らえていて、健側に大きな負担がかかる歩き方なのがよくわかる。

4番~5番腰椎付近の酷使がはなはだしい。異常歩行による腰への負担は大きく腰痛の原因であることが納得できる。

カメラを意識していると緊張で腕がL字型に曲がっている。普段は意識しないので腕は伸びているが、ちょっとしたことでもご覧のように腕が曲がるのが脳卒中における片麻痺の特徴でもある。緊張はなくせばよいというものではない。緊張を弛緩剤などでとってしまうとコンニャクのようにふにゃふにゃになって歩けなくなる。ある程度の緊張がないと歩行どころか姿勢の維持すら困難となる。

人体の動作は筋肉の収縮によっておこなわれる。筋肉がグッと縮むと力が入る。筋肉が緩むと力がなくなる。この筋肉の収縮が絶妙のバランスでコントロールされている。そのコントロールを司るのが脳の運動野と言われる領域だが、他にも体中のすべての臓器、筋肉、筋、ありとあらゆるパーツが複雑にからみあって人体の動作が行われている。これらのことは32年間の片麻痺生活での体の変化、特に感覚の戻りの経緯とかを体験することにより思わされる。また数々の文献や研究者らの報告と鑑みてもそうであろうと思う。

この足でも32年間毎日雨の日も変えの日も雪の日も、カンカン照りの日も6000歩いた結果である。分回し歩行の影響で麻痺足が湾曲しているのがよくわかる。そして関節の内側が膨れているのは変則歩行を補うためにそれに応じた関節に発達したのだろうか。発病当初はPTから反張膝と分回し歩行を改めないと将来は膝がボロボロになると宣告を受けた。膝の装具を作るか、もしくはアキレス腱延長をするのかとの意見も主任療法士から聞かされたがいずれも緊急の課題ではないというので、立ち消えになった。(1985年当時)

1994年に福岡東病院でアキレス腱延長を受けたがほとんど改善はみられない。よかったのは足の親指の筋を医師が独自の判断で切断してくれたことだ。おかげで指の曲がりが軽減された。緊張が強いと足の指が曲がってあるけないという人もいる。軽度の場合は足指の装具などで対処できるが曲がりがキツイ場合は外科的手術での対応となる。ただ、この手術をしてくれる医師を探すのが難しい。

スポンサードリンク

最後に

脳卒中による片麻痺が完治することはない。しかし片麻痺での暮らしに慣れることで、他人の手を煩わせない程度にはなり、それなりの生活は可能である。回復期リハビリを終えると病院やリハビリ施設を出ることになる。自宅に戻ると辛い訓練から逃げ出したくて、今日は雨が降りそうだから歩く練習は止めようとか。今日は体調が悪いので家でテレビでも見て過ごそうとか、理由を見つけては訓練をサボリがちである。

また、訓練ばかりに気をとられていると、まるでリハビリをするために生きているかのような生活になる。これもまた困ったものである。体は使わないでいると日に日に衰える。しかし、頑張り過ぎてもイケナイ。いったいどうすれば良いのか大いに悩むところではある。

僕が導き出した答えは日常生活をリハビリと捉えることだった。妻が働きに出る間に掃除と買い物を済ませる。買いも似に行くには往復1時間ほどを歩かなばならない。雨が降れば傘をさして買い物に行く。これが屋外歩行訓練となる。家に戻ってキッチンに立ち、料理の下ごしらえから調理に至る一連の作業が持久力の鍛錬になる。いずれの行動も辛く苦しいものである。初めはキツイが、だんだん慣れてくるので諦めずにコツコツと継続するしか方法はない。

The following two tabs change content below.
まこっちゃん

まこっちゃん

元自動車会社工員、配管工、自動車洗車場、呉服担ぎ屋、土木作業員

昭和61年、琉球大学キャンパス内で架橋工事中に突然脳内出血に倒れる。
以降左半身不随の後遺症が残り1種2級の身体障碍者となる。

昭和64年(平成元年)リハビリセンターで入所中に知り合って交際していた女性職員と入籍。
福岡県粕屋郡古賀町(現古賀市)へ転居。彼女が働き、家事全般は夫がする暮らしを始める。生活費は折半。いわゆる「主夫」となって今に至る。

スポンサードリンク