脳卒中片麻痺者の若いころの思い出、トヨタへ

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昭和42年12月30日
従兄弟の岩夫とカズナリが正月休みで当条に帰ってきた。二人ともジャンパーではなくおしゃれな洋服を着ていたので驚いた。31日の夜は元家に寄って紅白歌合戦を見た。

「岩ちゃん、そりゃあ。なんちゅう着物(きもん)ね」

「おおこりか。こりがブレザーちゅうとぞ」

「ふーん。高かとやろね」

「1万円た」

僕は自分の一ヶ月分の給料だと聞かされてうらやましく思った。そして幼馴染のカズナリは発売されたばかりの緑色に塗られたカローラ1100で当条に現れたのである。

「プラス100ccの余裕」

というテレビコマーシャルが当条の茶の間にも流れていた。日産自動車の1000cc車サニーが発売され、その対抗馬としてトヨカローラが発売されたのである。誰もが1000ccのエンジンを搭載していると思っていたが、実際にフタを開けてみると1100ccだったこともあって世間の注目を浴びていた。

やっとこさ。スズキの50ccバイクを手に入れた僕には乗用車など夢のまた夢である。吃驚したなんてもんじゃなかった。と言ってもこの車はカズナリの友人の持ち物だ。愛知県出身の同僚工員が所有するカローラだった。この工員は九州へは行ったことがないというのでカズナリの帰省についてきたと話した。鹿児島へドライブ旅行に行くというので自分もも同行した。桜島の煙をフェリーの上から眺めていると、爆発したら怖いだろうなあ。と。そう思ってしまう。愛知の青年が18歳で普通自動車の免許を取得し、すでに乗用車まで持っていることに僕は衝撃を受け、精神が飴方のようにヘナヘナになった。

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トヨタへ

昭和30年後半から40年にかけては日本もモータリーゼーションへと突入し、各自動車メーカーが続々と新型車を開発し量産体制を敷いた。どの企業も慢性的な労働力不足で工員確保にやっきとなっていた。

田舎の村役場、職業安定所は申すに及ばず、自衛隊退職者、街にたむろする若者、従業員の縁故者にまでボッシューの触手は伸びていた。だいたいどこの会社にも人事部採用課というのがあって、帰省する工員らに親類縁者を勧誘させた。現場の責任者である、工長・組長から因果を含められている岩夫もカズナリもシゲに向かって甘い息を吹きかけた。

「マコ。ガンガン屋は辞めておまいもトヨタにこんか。給料は3万円な貰うぞ」

「ほ。ほんなこつか!」

日給月給1万円の僕にとって3万円は衝撃だった。そのころのオサムは久留米の工業高校へ通っていたが、ダボダボのズボンをはいて鰐皮のベルトを締めるようになっていた。中学を出ると当条の幼馴染らもそれぞれに新しい世界へと羽ばたいていてヒココの付き合い以外遊ぶ事も無くなった。

僕は正月休みが明けても大坪自動車へ行くのが嫌になってズル休みを続けた。しばらく実家でゴロゴロしていたがやがて福島の職業安定所を尋ねた。

「あのう。トヨタ自動車のボッシューはまだあっとりますかの」

「ええ。今度は1月15日に採用試験がありますよ。どげんせらっしゃるですか。受けらっしゃるなら履歴書ば持って15日午前9時に、ここの2階へ来てください」

「はい、わかりました。ほんなら15日に来ますけん。どうもすんまっしぇん」

帰りに福島のデパートの前でバイクを止め文房具コーナーで履歴書を買った。そして土橋の交差点にあるかぶと饅頭屋で黒餡と白餡入りおわん型の回転饅頭を求めた。関東では今川焼きだという。これは少年サンデーで知った。試験は算数と国語である。それでもシゲは分数ができなかった。通分が理解できないのである。入社試験と言っても形式的なものだ。ましてや従兄弟と同じ村の出身者がいるというので採用は決まったも同然。というよりも1時間後には合格と告げられて入社説明会へと進んだ。

昭和42年3月
僕は、採用課の指示通りの住所へ蒲団をチッキで送った。そして岩夫とカズナリの母親から故郷のお土産を持たされて国鉄鳥栖駅から急行列車雲仙・西海に乗り込んだ。当条から、ヒロトシ、ヨシオ、サカエ、トシハル、フミタカが見送りにきた。列車が出るときホームにならんで万歳をしてくれた。僕の瞼はうるうるになった。ホームの人影がアズキのように小さくなると涙がボロボロとこぼれた。

最後に

今思うと当時の高度成長期が夢のようである。どこにいっても人手不足で、若いというだけで速攻採用された。

詳しくは小説筑後平野参照

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まこっちゃん

まこっちゃん

元自動車会社工員、配管工、自動車洗車場、呉服担ぎ屋、土木作業員

昭和61年、琉球大学キャンパス内で架橋工事中に突然脳内出血に倒れる。
以降左半身不随の後遺症が残り1種2級の身体障碍者となる。

昭和64年(平成元年)リハビリセンターで入所中に知り合って交際していた女性職員と入籍。
福岡県粕屋郡古賀町(現古賀市)へ転居。彼女が働き、家事全般は夫がする暮らしを始める。生活費は折半。いわゆる「主夫」となって今に至る。

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