鎌倉幕府と御家人

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鎌倉幕府の成り立ちの経緯をしるために、ぜひ今度の大河は見ておきたい。なぜなら頼朝の家人が後に御家人となり全国へ地頭や守護として下向し地方を支配していくからだ。室町期~戦国期への流れの源流である鎌倉幕府の黎明期が理解できていないと、後の流れがわからない。先祖代々の利害関係が微妙に影響しているからだ。関東からの下り衆と呼ばれ西国の豪族と同化しつつ勢力を拡大していく。豊後の大友氏や薩摩の島津氏がそれらにあたり戦国時代になっても鎌倉以来の名家と誇りにしている。また、武士らの争いや支配は、鎌倉幕府で合議制によ行われるので現代裁判の原型とも言える。

大友氏のルーツは、豊後国ではなく相模国です。大友家の初代・大友能直は、鎌倉時代の御家人で、将軍・源頼朝からも信頼が厚く、相模国大友郷(現在の神奈川県小田原市内)を領していたところ、1196年に豊後国守護に任じられた。以来、400年、22代にわたり大友氏は豊後国を治めることになった。大友氏は同紋衆として関東から多数の家来衆を連れて豊後に渡る。僕の故郷である九州筑後の国は筑後の国は宇都宮氏に支配される。宇都宮氏は後に大友氏の旗下に入る。

宇都宮氏、
鎌倉時代中期、第8代宇都宮貞綱は元寇の際、鎌倉幕府による討伐軍の総大将として九州に赴き、これに勝利すると鎌倉幕府引付衆に任じられた。

源頼朝(みなもとのよりとも)は、西暦1192年(建久3年)に後鳥羽天皇から征夷大将軍に任命され、源氏にとってゆかりのある鎌倉の地に幕府を開きました。

鎌倉幕府は武士による政権です。

征夷大将軍の源頼朝は朝廷から関東の支配権を認められ、その力を背景にしながら武士たちを束ねていきます。鎌倉幕府に従っている武士のことを御家人(ごけにん)と言います。

源頼朝は、妻の実家である北条時政(ほうじょう・ときまさ)や和田義盛(わだ・よしもり)などといった有力御家人の力のほか、朝廷で活躍していた大江広元(おおえの・ひろもと)などの知恵も借りながら、鎌倉幕府の仕組みを整えていきました。

上の仕組みで重要なのは、侍所(さむらいどころ)政所(まんどころ)及び問注所(もんちゅうじょ)、それから守護(しゅご)地頭(じとう)です。

門柱所氏

問註所氏(もんちゅうしょし/もんぢゅうじょし)は、筑後国生葉郡国人領主で筑後十五城の一つ。

三善清行の後裔の三善康信鎌倉幕府問註所執事となり筑後生葉郡に所領をえる。子の康俊が大友能直の後見として九州に同行する。

少弐氏

その孫の康行が正和2年(1313年)鎌倉から九州に下向し土着、筑後国生葉郡を領し、問註所康行と名乗ったのがはじまりである。

武藤資頼は平知盛に仕えた平家の武将であったが、一ノ谷の戦いの時に源氏方に投降し、その後、許されて源頼朝の家人となる。平家滅亡後、大宰少弐に任じられ、平家方であった九州の武家に対する鎌倉方の抑えとして、鎮西奉行をはじめ、北九州諸国の守護となる。この頼朝による抜擢が、その後の少弐氏の興隆のきっかけである。

鎌倉御家人一覧(ウイキペディア)

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まこっちゃん

まこっちゃん

元自動車会社工員、配管工、自動車洗車場、呉服担ぎ屋、土木作業員

昭和61年、琉球大学キャンパス内で架橋工事中に突然脳内出血に倒れる。
以降左半身不随の後遺症が残り1種2級の身体障碍者となる。

昭和64年(平成元年)リハビリセンターで入所中に知り合って交際していた女性職員と入籍。
福岡県粕屋郡古賀町(現古賀市)へ転居。彼女が働き、家事全般は夫がする暮らしを始める。生活費は折半。いわゆる「主夫」となって今に至る。

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