傷痍軍人は、障害者政策の原点

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障碍者福祉の流れを見るうえで傷痍軍人の存在は欠かせない。

人類が初めて経験した近代兵器の威力はすさまじく、イギリスは戦勝国とはいえ、第一次世界大戦で多くの傷病者を出した。この経験があったから、ドイツとの2回目の開戦を決意するにあたり、多数出ると予想される傷病兵の社会復帰をどうするかという問題を研究するように命じていた。チャーチルは開戦の前から傷病兵の社会復帰の問題をどうするかということも考えていたのである。戦争が終わるとそのプログラムが始動する。これがリハビリテーションの始まりと言われている。

日本でも戦争でケガをした人は傷痍軍人として大切にされ、故郷では軍神様とも崇められていた。しかし、民間では福祉という言葉すら存在せず、ほったらかしであった。1949年になって、アメリカのヘレンケラー女史の来日が後押しとなり、やっと身体障碍者福祉法が制定されることになる。

傷痍軍人(しょういぐんじん、英: disabled veterans)は、戦傷を負った軍人のこと。戦傷は復員後も健康や生活に大きな影響をもたらす。傷痍軍人には早くに亡くなる者、生涯を通じて病や不自由に悩む者も多く、古くは古代ギリシャ時代から社会問題となっている。

戦争、紛争などの武力衝突は、必然的に死者のみならず負傷者を生み出す。特に近代戦は、大量の戦傷者を生みだす傾向がある。戦時中は国家全体の気分が高揚し、「名誉の負傷」などと呼ばれ、地域社会や家族が傷痍軍人の世話や援助を自主的に行う傾向が強いが、戦争が終了すると、戦争に対する熱が急速に冷め、傷痍軍人に対する社会的援助や支援も衰える傾向にある。身体に障害を受けた傷痍軍人は復員後に定職に就くことが難しく、社会の最貧層に転落し、犯罪に手を染める者もおり、しばしば大きな社会問題となった。そのため時の政府は慰労及び補償のため、軍人恩給や療養施設(例:フランスの廃兵院)などの制度を整備し、社会的な不安の解消に務めてきた。

日本においても日露戦争後に大量の傷痍軍人が出現して大きな社会問題となり、国家により救済支援制度が整備された。また、第二次世界大戦において多くの軍人が戦死、あるいは傷痍軍人となった。戦時下においては、戦傷もまた名誉とされ、在世中の軍人傷病記章を着けることを許され、社会的に優遇を受けることもあった。

ポツダム宣言による第二次世界大戦の停戦後、連合国の占領下で軍事援護の停止による恩給の打ち切りなど、戦傷を負った人々とその家族の生活は困窮と苦難のふちにあった。サンフランシスコ条約発効による主権回復のあと、軍人恩給の復活とともに傷病者への支援に改善をみた[1]。戦後、厚生省のもとでその補償がなされるようになり、軍人恩給等の対象ともなった。財団法人日本傷病軍人会(会員の高齢化により2013年11月30日、結成60周年で解散)を中心として、各地に傷痍軍人会が設立され、傷痍軍人の生活の援護と親睦福祉増進を図る事業が展開されている。21世紀となって、日本における傷痍軍人は既に亡くなった者が多いが、生存者に対する慰労や補償とともに、物故者に対する慰霊や顕彰、遺族補償の問題は未だ大きな問題となっている。

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廃兵院とは

傷痍軍人と呼ばれた戦傷兵の収容と看護は、法の成立・改正により次のような変遷を経ている。日露戦争開戦2年で大量の傷病兵の本土への帰還をみ、1906年(明治39年)4月廃兵院法成立後、廃兵院が各地に設けられた。1934年(昭和9年)3月の傷兵院法によって廃兵院は傷兵院と改称され、1938年(昭和13年)厚生省が設けられ傷兵院は厚生省外局の傷兵保護院に所属とした。その翌年には傷兵保護院は軍事保護院に改称され、付属として各地に傷痍軍人療養所が併設された。

連合国軍占領下の1945年(昭和20年)12月には陸軍病院と海軍病院合わせて146の施設は国立病院となり、同時に傷痍軍人療養所53施設は国立療養所となった。2004年(平成16年)4月に全国の国立病院と国立療養所は国立病院機構の下に病院や医療センターとなっている(ハンセン病療養所の一つである国立駿河療養所は除く。)

傷、痍ともにキズ(傷)を意味するが、大きな傷として腕や脚を失った傷痍軍人も多くいた。軽傷の者は復員後故郷に晴れて戻ったが、体の一部を戦禍で失ったこれら元軍人は仕事に就ける訳でもなく、その生涯を国立療養所やその後の国立病院機構で過ごすこととなった。日々の生活はそこで送っていたものの、都会の人通りが多い駅前や、地元の祭りや縁日にはその場に来て、露天商が並ぶ通りなどの通行人から金銭を貰い小遣いとした。 (出典:ウイキペディア)

最後に、

障碍者政策を語る上で避けては通れないのが傷痍軍人のことであろう。昔は、正月の神社や縁日などの近くで寄付を募る傷痍軍人の方たちが見受けられたが、今はそんなこともなくなった。

以下NHK戦後の日本の歩みより抜粋

Q:日本の障害者福祉の始まりというのは、傷痍軍人の人たちの対策をどうするかっていうところから。

そうです。日露戦争の時からそうです。廃兵院という、変な言葉ですが、役に立たなくなった不具廃疾(ふぐはいしつ)の廃兵院(はいへいいん)。これは軍人さんを対象にして施設を作って、いま箱根に後継の施設がありますけれども、いま、障害者を広く対象にしていますけれども、重度の身体障害ですよね。それから、そういう人たちの家族やなんかを含めて、亡くなった人やけがをした傷痍軍人、日露戦争が始まると同時に、そういうものを軍人さんのために作っていましたから。それは大正、昭和と、100年の間に少しずつ整備されていきましたけども、昭和20年までは軍人さんオンリーですね。それ以外はびた一文、99.9%ぐらいはそういうのを主として対象にしていた。一部の民間やなんかは、若干は別なものもありましたけれども。

Q:終戦後の話、この法案は終戦後のものですけれども、終戦後の、広く身体障害への福祉の始まりも、傷痍軍人の方たちの対策が始まりだったんですね。

そうですね。それを一挙に拡大した、考え方を変えさせたというのが、戦争の敗北だったんじゃないですかね。戦争による敗戦ですね。敗戦という事態が、昭和20年、21年、22年、23年、25年ぐらいまでの5年間ぐらいの間にがらっと変わっていくということがあったんじゃないですか。

それまでの軍国主義、軍人優先体制。それしか人間はいないというような見方さえあったぐらいの状況を、すべての国民を対象に無差別平等に福祉、あるいはこういう医療、保険、そういった福祉サービス関係のものを保障していくというか、義手・義足を給与するのを国民すべてに提供する。そういう方向に変わったってことでしょうね。

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まこっちゃん

まこっちゃん

元自動車会社工員、配管工、自動車洗車場、呉服担ぎ屋、土木作業員

昭和61年、琉球大学キャンパス内で架橋工事中に突然脳内出血に倒れる。
以降左半身不随の後遺症が残り1種2級の身体障碍者となる。

昭和64年(平成元年)リハビリセンターで入所中に知り合って交際していた女性職員と入籍。
福岡県粕屋郡古賀町(現古賀市)へ転居。彼女が働き、家事全般は夫がする暮らしを始める。生活費は折半。いわゆる「主夫」となって今に至る。

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