隻脚のエース

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檜 與平(日本・片下肢切断 身障手帳1種4級に相当)

(ひのき よへい、1920年 – 1991年、桧 与平)は、日本の陸軍軍人。戦闘機操縦者。最終階級は陸軍少佐。徳島県出身。

戦隊長・加藤建夫中佐の下、加藤隼戦闘隊として有名な日本陸軍飛行第64戦隊の隊員を務めた経歴を持ち、敵戦闘機との空戦によって右脚を切断されるが、義足を付けて戦列に復帰した“義足のエース”“鉄脚のエース”“隻脚のエース”として知られる。

右足首先の切断

1943年(昭和18年)11月27日のアメリカ軍戦爆連合での襲来時、P-38戦闘機を1機とP-51を1機、海上250㌔ほど追撃して編隊から遅れた2機のB-24 爆撃の内の1機を撃墜した。更に残る1機の爆撃機を正面攻撃で撃破し反転して撃墜を試みようとした瞬間、護衛機のP-51の奇襲攻撃を下方より受け被弾。右足に機関砲弾が命中して膝下10cmから先を飛ばされた。

しかし檜機自体は動力系も燃料系も大きな損傷はなく飛行は可能であった。檜中尉はマフラーで直ちに止血をしたものの、失血のため朦朧とした意識と睡魔に襲われた。30分程の飛行の途中で自爆や不時着を考える度に、戦死した加藤建夫隊長の「こんな所でいかんぞ。基地までがんばれ」との声に励まし続けられた。

海上を抜けてからは、いつのまにか加藤部隊長機の僚機となって「ぴたりと編隊を組んで」飛んでいたという。そして、ふと単機であることに気付くと、そこはバイセン上空であった。と檜中尉は回想している。 バイセンから苦しい飛行をさらに続けてやがてラングーンの自分の基地に帰還した。
被弾負傷時、檜は止血のために飛行服(航空服)に着用していたマフラー(襟巻)をしたが、このマフラーは出撃時ふと思い返して、普段愛用していたコバルトブルー色のものではなく、同年2月25日に戦死した第64戦隊6代目戦隊長、明楽武世少佐の未亡人から贈られた純白色のマフラーを取り出して着用したものであった 。

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必死のリハビリで復帰

負傷により後送され右足下腿部切断の手術を受け、療養のために日本内地に帰国。陸軍病院にてジュラルミン製の義足を履く。空中勤務者には不可欠の足を失っているため一時は復帰の道を絶たれるが、檜自身の強い意思と文字通り血の滲む懸命なリハビリによって空へと戻ることを認められる。
1944年(昭和19年)には前任の第64戦隊附から教官として明野教導飛行師団(旧明野陸軍飛行学校)附に異動。大戦最末期の日本本土防空戦において、明野教導飛行師団附の空中勤務者・地上勤務者から抽出改編された精鋭飛行第111戦隊第2大隊長として、新鋭の五式戦闘機を操縦。

1945年(昭和20年)7月16日の迎撃戦では、十倍近くの敵に対して伊勢湾上空で、P-51(総合性能を上げたD型・陸軍航空軍第506戦闘機群所属、ジョン・ベンボウ大尉機(戦死))を辛うじて撃墜したが、新鋭の戦闘機を用いながら部隊の連携が悪く、かつての精鋭明野戦闘部隊の面影も無いとの慷慨をもらしている。(出典ウイキペディア)

最後に

日本軍機と米軍機の性能の差は歴然としており、米軍の新鋭戦闘機に太刀打ちできなかった。特に700キロ以上の最高速を誇るP51Dを捕捉撃墜することは非常に困難であった。そのP51Dを撃墜するなんて驚嘆するほかない。ましてや右足が義足である。空戦中に感覚のない義足でフットバーをどう踏むか。相当な工夫と訓練ががいったであろう事は想像に難くない。

三重県上空の空中戦  昭和20年7月16日  雲井 保夫

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まこっちゃん

まこっちゃん

元自動車会社工員、配管工、自動車洗車場、呉服担ぎ屋、土木作業員

昭和61年、琉球大学キャンパス内で架橋工事中に突然脳内出血に倒れる。
以降左半身不随の後遺症が残り1種2級の身体障碍者となる。

昭和64年(平成元年)リハビリセンターで入所中に知り合って交際していた女性職員と入籍。
福岡県粕屋郡古賀町(現古賀市)へ転居。彼女が働き、家事全般は夫がする暮らしを始める。生活費は折半。いわゆる「主夫」となって今に至る。

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