快楽の代償

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200806151009

雅子が羽田の到着口で出迎えてくれる約束もできた。万一の場合に備えて彼女の携帯番号を控えた。11日は朝から落ち着かなかった。忠則は、夜の11時過ぎまでテレビを見てから蒲団をかぶった。昨夜、ほとんど眠れなかった。

明け方になってわずかにまどろんだが、カーテン越しに外界が白々として来るのを感じると、待ちかねたように蒲団をめくった。そして、カーテンをちょっぴり開いて空模様を眺めた。「よしよし、晴れている」心の中でつぶやくと、隣で寝ている妻を起こさないようにそっと寝室を出てから、手早くトイレと洗面を済ませた。それから居間へ移動してテレビをつけると関東地方の天気を確認した。

全域晴れマークが出ている。「やったあー、晴れだ!」思わず叫びたくなったが、言葉を飲み込んだ。テレビを見てぼんやり眺めて時間の経過を待った。そうこうするうちに妻の由美子がキッチンに立った。

「今日は随分早かとね」

「うん、仕事の事で人に会うけん。帰りは遅くなるかも知れん。夕食は食べてくる」

忠則は、トーストとコーヒーで朝食を済ませると頃合を見計らって着替えを始めた。マリンブルーのサマースーツに白のカッターシャツを着てレジメントのネクタイを締め、濃紺のソックスに黒のスリッポンを履いて家を出た。家を出ると真っ先に空を見上げた。

ああ、晴れてよかった、と空を眺めながらそう思った。雲ひとつない、絵に描いたような五月晴れである。もし、昨日から関東方面に接近中だった低気圧が進路を変えずにあのまま向かっていたら、今日の羽田デートは実現しなかっただろう。この見事なまでの五月晴れはどうだ。まるで、俺たちのデートが天に祝福されているかのようじゃないか。

そんなことを考えながら、忠則はJR香椎駅に向かった。駅に着いてもまだ少し時間が早かった。列車を2本ほどやり過ごしてから下り方面の普通列車に乗り込んだ。箱崎、吉塚を過ぎると博多である。博多駅に着くと以前通勤していたときのように聞きなれたアナウンスが流れている。

博多駅で空港行きの地下鉄に乗り換えた。やがて列車は、終点の福岡空港駅に到着したので急いで箱から出た。人の流れに付いてエスカレーターに乗ると目的の場所に出た。

飛行機の発着を知らせる黒いフラップボードの中から自分が乗る302便を確認した。チケットはスカイマークを往復で買っている。

往福岡発9時15分東京着10時45分

復東京発17時5分福岡着18時35分

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待合室

時計を見ると、まだ8時を回ったばかりである。搭乗手続き早めに済ませて2階の待合室に移動して長いすに横になった。仮眠を取ろうとまぶたを閉じた。しかし、瞳がチカチカして眠れない。目をつぶるのだけど、脳のどこかが異様に興奮している。眠いけど眠れないという変な状態である。

本当に雅子は羽田まで来てくれるだろうか。忠則は、そのことが急に気になり始めた。朝になってから気持ちが変わることだって十分考えられる。彼女は、旦那を送り出してから出ると言っていた。旦那か娘が、突然病気になって出られなくなるかもしれない。そうだ。雅子の携帯に電話してみよう。もしかして都合が悪くなったと言うのなら、今なら間に合う。羽田に着いてから待ちぼうけをするよりもここで引き返した方がましだ。

しかし、彼女がウソをつくとは思えない。何度もメールで打ち合わせをして決めた事だ。お互いの熱い想いは、もう止まらないところまできている。何がなんでも二人は会わずにはいられない心境なのだ。こんなことを考えていても不安が増すばかりなので、忠則は、ケータイで雅子の番号を押した。

「おかけになった番号は、現在、電波の届かない範囲におられるか、電源が切られている状態にあります」

不安な気持ちのまま機上の人となる決心を固めた。福岡から羽田まで珈琲を飲みに行ったと思えばいいじゃないか。女に待ちぼうけをくわされることを恐れていては何もできやしない。

やがて、待合室の中に搭乗案内のアナウンスが流れた。

列に並んで機内に入った。やがて飛行機は福岡空港を離陸した。1時間ほどのフライトで東京湾を眼下に見下ろしながら左旋回を始めた。空港周辺のコンビナートがハッキリ見えてきた。飛行機はドシンと降りるとすぐに車輪が滑走路を捉えた。そして徐々に速度を鈍らせ、羽田空港のエプロンに無事に横付けした。急いでボーデンブリッジが接続される。
機内から外に出る人の流れがやけにおそく感じられる。歩く歩道を小走りで抜けると到着口に着いた。ガラス越しに人だかりが見える。背伸びして出迎えの人垣を見回した。
「おお、雅子だ」
左端でキョロキョロしいる顔に見覚えがあった。彼女は来てくれていた。忠則の胸にほっとすると共にじーんと熱いものが込み上げてきた。手を振りながら出口へ向かう人の列に並んだ。

やがて向うもこっちを見つけたようだ。雅子がしきりに手を振っている。忠則も応えて激しく手を振った。到着口を出ると小走りに女が近づいてきた。どこにでもいる普通のおばさんだが清楚な感じがミョーに男心をそそる。淡いベージュのスカートに白のブラウスに茶色のカーディガンをはおっている。形のよいサクランボのような口が印象的だ。どちらからともなく手が出て握手した。

「やっと逢えたね」

「うん」

「忠則さん、写真とおんなじ」

「雅子は写真より美人だ」

「ほんと、嬉しい」

初めて会うのに、なんの違和感もなかった。若い恋人たちがそうするように、忠則の左腕に雅子は腕を絡めてきた。歩きながら、

「どこへ行く」

「どこいこうか」

「とにかく外に出てみよう」

「ねえ、奥様には何と言ってきたの」

「仕事探しの件で人に会うと」

「雅子の方こそ大丈夫なのか」

「ええ、5時半までに高崎駅に着けばいいのよ。羽田一六時発、高崎行きの直行バスに乗れば大丈夫よ。チケットも往復で買っているし。夕飯の下ごしらえも昨日のうちにやっておいたの」

モノレールで浜松町へ出た。

ホテルがない

駅の食堂街を抜けるとき、うどんかソバの出汁をとるいい匂いがプーンと鼻をついた。忠則は、本当は少し空腹であった。しかし今は一分でも時間が惜しい。早く二人っ切りになりたいという思いで、頭の中は一杯なのだ。雅子の手を引いてタクシー乗り場へ向かう。

黄色いタクシーが目の前で停車した。雅子を先に、後部座席に押し込んで並んで座った。

「どちらまで」

運転手が事務的に尋ねた。

「ホテルに行ってください」

「遠いけどいいですか?ここからだと鶯谷まで行かないとその手のホテルはありません」

「え!」

タクシーにさえ乗れば大丈夫だと思っていたので一瞬固まった。タクシー代も2000円もあれば郊外か市内のラブホテルに連れて行ってもらえるという思い込みがあった。それが福岡の常識なのだ。九州一の大都会でそうだから

「東京も違わんばい」

思い込んでいたのが田舎者の浅はかさである。

「料金はいくらぐらいかかりますか」

「そうですねえ、今だと渋滞しているので高速を使うことになりますからね、1万円以上はかかりますよ」

財布には2万円しか入っていない。これはもう諦めるしかなさそうだ。では、下りますとも言えないで、

「じゃあ、羽田へ行ってください」

ションボリとした口調で行き先を告げると運転手は車を走らせた。

「僕たちはインターネットで知り合って、福岡から飛行機でこの人に逢いにきました。彼女は群馬から高速バスで羽田まできてくれたんです」

これを聞いた運転手は、

「蒲田にビジネスホテルがありますけど、休憩ができるかどうかは知りません。蒲田なら羽田への通り道ですから、途中で寄ってみますか?」

このまま羽田にもどって食事して時間がくるまでお茶でもするか。でも、せっかく逢えんたんだ。せめてどこかで二人っきりになれる場所が欲しかった。

「え、そうですか。ぜひ、行ってください」

ダメで元々である。向こうだって商売だ。部屋が空いてさえいれば可能性はある。

「高速使ってもいいですか」

「はい」

忠則が笑顔で答えると、運転手は、一般道から高速道へと車を乗り入れた。

時速80キロから100キロへ。黄色い車はぐんぐん加速した。後部座先で雅子の手を握り、忠則の気持ちはすでにテンパッている。

キキキー。タクシーは古びた4階建てのホテルの前で停車した。受付は2階へと案内が出ていた。急いで階段を上がってフロントに向かうと50歳ぐらいの、髪の長い女がカウンターに座っていた。

「休憩をしたいのですが」

雅子はそばでうつむいている。

「うちはそういう所ではありません。でも、お泊まりの料金をいただけるならお部屋のご用意は出来ます」

部屋の壁紙は薄汚れたグレーで、男女が忍び逢う近代的なラブホテルに比べると実用一点張りでムードのかけらもない。しかし、その無愛想な雰囲気が背徳の行為にリアリティをかもしだしていた。

しかし、めくるめく恋人たちの時間はあっという間に過ぎた。時計を見ると3時半である。身支度を整えるとフロントへ行き車を呼んでもらった。4時前には空港に到着した。二人とも空腹である。

売店でサンドイッチを一個ずつ買った。雅子はミックスサンドを。忠則はビーフサンドを買って待合室で仲良く食べた。バナナジュースも1個買った。ふたりで仲良く飲んだ。椅子に座ってくだらない話をしていると、やがて雅子の乗るバスの時間が近づいた。忠則は、雅子をバス停まで見送った。彼女は小さく手を振りながらバスに乗り込んだ。

「帰ったらメールするわ、忠則さんも頂戴」

アクシデント

忠則が羽田を飛立ったのは、定刻どおり17時05である。座席に座ると心地よい眠りについた。…ウトウトしていると何やら騒がしい。目を開けて機内の前方を見ると男が女性の客室乗務員に包丁のような物を突き付けているのが見えた。男は興奮している。しゃべっているのがよく聞き取れない。何か異常事態が起きていることだけはわかった。

それから直ぐ異変を察してコックピットから一人の男が出てきた。たぶん副操縦士に違いない。と忠則は思いながら事態の推移を見守っている。他の乗客も不安げな様子であるが、誰も声を出さない。機内では男がわけのわからない事を興奮してしゃべっている。がジェットエンジンの音と機体が風を切るゴーッという音が混じって良く聞こえない。

と、男が一瞬油断を見せた。副操縦士はそれを見逃さず果敢に男に飛びついた。男は包丁を激しく振り回して抵抗した。副操縦士が足を滑らせて転んだ。男が馬乗りになった。機内は騒然となった。忠則はマズイと思って、男の後ろから近づき羽交い絞めにしようとした。しかし、男が一瞬早く振り向いて包丁を達夫の胸めがけて突き出した。忠則の胸が瞬時に熱くなって鮮血がシャツに染まった。

1999年7月23日午後7時、

山本由美子は福岡空港近くのラブホテルの一室で男と情事を楽しんだ後の余韻に浸りながら下着を身につけ始めた。

「ねえ、今度はいつ逢えるの?」

「それはまだ分からないけど…。ところで家の奴には感づかれていないけど、君の方は旦那にバレてないかい?それが心配だよ」

「うん大丈夫よ。家のは最近、パソコンでコソコソしてるから浮気でもしてるかもしれないわ。私、気付かないふりしているだけなの。だからバレても平気よ。自分たちの事は隠し通して。そのうちシッポをつかんでやるわよ」

男がネクタイを締めながらテレビのスイッチを入れた。チャンネルがKHKになっていて、7時のニュースを流している。

「東京発~福岡行きANN317便でハイジャックが発生し、乗員1名が軽傷、乗客1名が包丁で胸を刺され意識不明の重体に陥っている模様です」

この時の犯人は病的な飛行機マニアの犯行であった。動機は、自分が発見した羽田空港の警備の不備を指摘したが無視された事である。

「一階の到着手荷物受取場と2階の出発ロビーを結ぶ階段に警備員が配置されておらず、自由に行き来できる事がわかりました。この事はハイジャック犯罪を容易に成立させる事になります」

といった内容の手紙を空港側に送ったが、聞き入れてもらえず、自分でハイジャックを実行してみせたと後日報道された。

エピローグ

羽田空港で全日空機のハイジャックが起きたのは1999年7月23日、この事件を契機に日本でも空港警備の強化がはかられるようになっていく。この事件をヒントに小さな物語を綴ってみた。

 

 

 

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まこっちゃん

まこっちゃん

元自動車会社工員、配管工、自動車洗車場、呉服担ぎ屋、土木作業員

昭和61年、琉球大学キャンパス内で架橋工事中に突然脳内出血に倒れる。
以降左半身不随の後遺症が残り1種2級の身体障碍者となる。

昭和64年(平成元年)リハビリセンターで入所中に知り合って交際していた女性職員と入籍。
福岡県粕屋郡古賀町(現古賀市)へ転居。彼女が働き、家事全般は夫がする暮らしを始める。生活費は折半。いわゆる「主夫」となって今に至る。

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