自分史あらすじ

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2020年1月31日
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ヨッシャン(中学の友達)が、俺の女に手を出した奴と、話を付けるので手伝えと言う。工員じゃ相手が怖がらないのでチンピラという設定にされた。久留米の喫茶フルーツポンチに乗り込むと、相手が怖がって竜神組に頼んだので、ヨッシャンは連れて行かれた。言うことを聞かないと熊の檻にいれると脅かされビビった。
ヨッシャンは真面目になれと自衛隊に入隊することを誓約させられた。ヨッシャンを自衛隊に赤バイで送ったことが縁で、僕も自衛隊に入れられたが、ヘタレなので1日で逃げてきた。

写真はアジトのそば。
車はヨッシャンの実家所有のマツダファミリア800を乗り回していた頃。(19歳)

ヨッシャンはこのトラックで久留米のディスコへ繰り出して、
ナンパしてくるので、その腕前に脱帽した。
当時はトラックでも通用した良い時代。

成人式が終わると僕はシャッター屋になってスズキフロンテ360を月賦で買った。ヨレヨレの車体に手を入れフェリックスキャットを手描きして乗り回した。
シャッター屋の頃、マージャン仲間のペーさん(北川)の心配で自動車洗車場で働き呉服屋へ移動。

呉服屋を辞めてからお針子と駆け落ちしたが失敗。実家のアジトにしばらく潜んでいた。本家の従弟が水道工事屋を始めたので手伝っていた。

洗車場から担ぎ屋になってフロンテクーペを買った。
博多帯と大島紬を車に積んで全国を売って回った。
成績が良いと営業車はクラウンハードトップがあてがわれた。(21歳~28歳)

*洗車場と担ぎ屋は同一経営者

ボートにはまっていたころ、ギャンブル仲間と海水浴に。クギ茶(仮結納)の入った女を連れて長崎へ逃げた。相手の男も女の家族も激怒し村にいずらくなった。夜はアジトに身をひそめ昼はスイカ売りになるも夏は直ぐに終わった。チリ紙交換に転じるも稼げず。なけなしの小銭を握って唐津ボートに行ってスッテンテンに。送迎バスで博多駅のコンコースに降りる。ベトナムズボンのポケットには80円しかなかった。故郷のアジトにも戻れず、この先どうしようと頭を抱えた。博多駅のコンコースに座り込んだ。九州スポーツを見ていると、「作業員急募・毎日現金払・寮有」の広告が目について電話。15分で箱バンの迎えがきた。「電話の人な」「はい」「乗りない」と言われて駅裏の小汚いビルの一室に連れて行かれた。それから人夫の世界にどっぷりと浸かっていくことになる。

俗にいう「人夫出し」というのは昔のタコ部屋のこと。屈強な親方がいてギューギュー詰めの宿舎に人を住まわせ、土木工事などの現場に送り込む。一人1日1万円の日当が企業から親方に支払われる。その中から5千円が親方の取り分。残り5千円から寮費と飯代が3千円ひかれて人夫の手元には2千円が渡される。とても理不尽なようだが、行き場の無い人(刑務所を出たばかり、借金取から夜逃げした人)などの履歴書の提出が困難な人には有難い場所である。

しかし、長くいる場所ではない。現場で知り合った監督と交渉し、直に雇ってもらう事にした。同じ日雇でも実入りが違う。6千円の食い放しという条件で、長崎自動車道や大分自動車道、武雄バイパスの現場で牛馬のごとくコキ使われた。

飯と宿舎は建設会社が用意するので一日働けば6千円がもらえる。毎月10日が締め切りで13日に監督が給料として渡してくれる。しかし、中には悪い監督がいて出勤日数や残業を少なく付けて、差額を自分の懐に入れる奴がいた。

労働者は自分で日報を付ける習慣がないので、簡単にごまかされた。先月は25日出たと自分で思っていても明細には24日で計算されていたりすることが良くある。

今は派遣事業という呼称に変わっているが、中身は昔と同じのようだ。

写真は武雄バイパスの現場と
NHK春日のラジオアンテナ解体工事の際監督と居酒屋へ。それと5万円で買ってオンボロからよみがせらえたサニトラ。

「山下あんちゃん、次の現場は沖縄ぞ」工事部長の命で、資材を満載したトラックを運転し、那覇港に着いたのが1984年12月。南風原に宿舎を構え、琉球大学と自衛隊の那覇基地の工事で昼夜を問わず突貫工事に明け暮れた。正月明け1月16日琉球大学の現場で型枠大工らと車座になって、弁当を使っていると、突然目の前が暗くなり動けなくなった。

大工らは僕を箱バンで診療所へ運んだ。診察した医師は救急車を手配し、浦添市の病院へ転送した。10日ほど沖縄にいて実家近くのB脳神経外科に転院。視床下部の出血。血種を除去するかの検討が行われたがオペは見送り。リハビリ専門病棟を持っている国立筑後病院へ移った。

ここは筑後地区の中核医療を担う、難病専門病院である。昔は陸軍病院で、戦後は結核療養所として知られていた。4月上旬に入院し、5月には1種2級の身体障碍者手帳が交付され、短下肢装具を作った。

42歳で総会屋だと名乗る男(脳梗塞左麻痺)と懇意になり、病院の周囲を一緒に歩いたり休憩所でテレビを見ていた。独身だった総会屋は、その後熱心な宗教家に篭絡され念仏を唱えるに至る。その後の消息は不明。

8月になると那覇労働監督署から人が来て、労災申請の聞き取りが行われた。申請書には過重労働の様子は削除され、正常な報告が元請負人であるゼネコンの手で改ざんされていて、愕然となった。こんな体になってしまった倅を抱えた両親は頭を抱えた。

* 写真は昭和60年5月筑後病院にて総会屋の友達と。

どんどんどん~♪ 太鼓が鳴る。実しやかに、拝みどんのタマキさんが紫の袈裟に水晶玉を抱えて僕の前に現れると、何やらブツブツと祝詞を上げていたが、向き直り、親父に向かうと、「留吉っつあん、まこちゃんにはキツネの霊が付いとるけん呪詛で追い払ろうたけん、よか方にいくじゃろう」と言って親父が持参した3千円を懐にしまった。

霊験あらかたと近在に聞こえたタマキさんの呪詛も効果がないと母にたしなめられた親父は、どこで聞いてきたのか福祉事務所を訪ねるという。僕は親父の軽トラにのせられて八女郡の合同庁舎にある福祉事務所の門を叩いた。

事情を聞かされた、障害者福祉担当の内田女史の心配で、福岡県身体障碍者リハビリテーションセンターへ行くことになった。ここで1年半の入所訓練に勤しむ。

リハビリセンターでは、ほぼ自主訓練だ。まあ、病院からイキナリ社会復帰するのも不安だから、しばらく考える時間が必要という。そういう趣旨で職業前訓練とかグループ訓練と言って、片麻痺者が隊列を組んで歩く訓練とかやってた。

入所期間は人により違うが、僕の場合1年半で退所することになった。家庭に帰る人もいれば、家族が引き取りを拒むケースもある。行き場の無い人には障害者の授産施設が紹介された。入所施設があり簡単な軽作業をして月に5000円程度の工賃が支給される。埼玉の国立職業リハセンターや県の職業訓練校を目指す人もいた。

色々考えたのだけど。故郷に戻って、若いころ根城にしていたアジトで暮らし、空き地で鶏を飼って、障害年金で細々と暮らしていこうと算段した。

2級の障害年金が下りたので初回金76万円が振り込まれた。この金でスズキのマイティーボーイをキャッシュ(72万)で購入した。軽のAT車はこれしかなかった。360CC 2速AT 高速を走ると坂道でノロノロ運転で後続車が数珠つなぎになったけど、煽られることもなく、みな余裕をもって追い越していった。麻痺足が倒れてセレクターレバーを押すこともあり注意がいった。

軽トラを手に入れると鶏舎を自力で作りヒヨコを入手した。

リハビリセンターを出て鶏を飼い始めたのが昭和63年。7月から8月にかけて毎日雨が降り続き、長い梅雨が明けたのはススキの穂が風になびくようになってから。

ヒヨコは順調に育ち、リハビリセンターで知り合った、彼女と交際しながら、鶏の世話に明け暮れていた。11月下旬になると鶏が卵を産み始めた。

「やったぞ」と喜んでいたら、彼女が一緒に暮らしたいからアジトに引っ越してくると言い出した。博多育ちの女が八女郡の農村の生活に耐えられないと思い、どうしたものかと首をひねった。うまい具合に、知り合いで鶏を飼っている人がいた。鶏を70羽もらってくれるというので、自分が彼女が住む糟屋郡古賀町(現古賀市)へ引っ越すことにした。

昭和62年12月、福岡県八女郡広川町から福岡県糟屋郡古賀町へ転入届を出した。

当初は同棲のつもりでいたが、彼女の勤務先であるリハビリセンターから、入籍しないと職員宿舎での同居は認められないと言われた。そういう事ならと、彼女の両親の同意を得ることにした。二人とも36歳になっていたので親の許可など必要ないと思っていた。

しかし、この体ではいつなんどき、人様のお世話にならないとも限らない。なので挨拶だけはしておこうと思案した。反対されるのは目に見えている。嫁取の挨拶に行くのにジャージーでは不味かろうと。リハビリセンターの生活指導の職員から背広を借りた。借り物の背広をきて短下肢装具を付けると福岡市の彼女の実家を訪ねた。

案の定両親から反対された。母親がこう言う「娘は真面目な性格で恋愛に免疫がありません。貴殿にうまく騙され利用されている」そばで聞いていた父親も大いに頷いた。

まあ、脳卒中で半身不随になった男の所へ娘を嫁に出すなど途方もないことに賛成する親などいないだろう。自分が逆の立場なら舌打ちをして追い返すところだ。重度の障害者との婚姻など重い石を背負いながら人生を歩いていくようなものだから。

しかし、恋愛とは妙なもので、周囲が反対すればするほど当人たちは燃え上がる。親の反対がかえって火に油を注いだ。彼女は勘当されてもいいと言い出し、父親と口を利かなくなった。まあ、しょうがないかとその夜は布団をかぶった。1週間が過ぎた頃、再度のお願いにいった。生活が苦しくなっても援助はしないという条件で了解を得た。

ヤレヤレという思いで、信州軽井沢の森の教会で5万円で挙式した。式の費用5万円の他に貸衣装代宿泊費合わせて15万円ほどになった。

粉雪が舞う博多駅から寝台特急「隼」に乗り込み東京駅を目指す。

妻が働き僕が夕飯の支度をするという暮らしが始まる。昭和天皇が崩御され、歌舞音曲を慎み国民は喪に服した。平成へと元号が変った。

妻の同僚たちから祝儀をもらった。僕の母もなけなしの10万円をくれ祝儀の合計は42万円になった。式の費用新幹線代などを差し引いても15万円ほど浮いた。

妻はスバルの軽を持っている。僕もマイティーボーイを持っている。2台はいらない。祝儀の残金を頭金に、2台を下車に出して550CCにパワーアップされたスバルビキを購入し、鹿児島の職業訓練校へ行ったリハビリセンターで一緒だった友達を訪ねたり、四国へ旅したりしていた。

このころ360CCだった軽自動車は550CCとなり、その後660CCへパワーアップされた。

結婚生活が始まると、慣れない買い物や炊事に夢中だった。朝はそれぞれにパンとコーヒーで朝食をとる。妻は弁当を詰めて職場へ行く。

僕は午前9時に団地を出て花見の海岸まで歩行訓練。帰りにスーパーマルキョーや駅前商店街で買い物。部屋に戻ると週刊誌の読者コーナーにせっせとハガキを出して謝礼金稼ぎをしていた。
そんな折、仕事で脳卒中などで倒れても労災が認められないという社会問題が噴出してきた。僕も労災申請したけどけんもほろろに蹴られた経緯があり、この扱いには頭に来ていた福岡の弁護士事務所にした。

しかし、弁護士が頼りないので自分で簡易裁判所に、逸失利益の請求の調停を申し立てた。間に入った調停員は、一人では勝てないから請求金額を下げて、会社の恩情にすがれと提案された。

しかたがないかと提案を飲んだが、夜寝ていても頭に来て眠れない。丑三つ時までウツラウツラしていると、フットとあることを想いだした。そうだ、あのことを世間に言いふらしてやるぞと言えば、どうなるだろう。そういう好奇心に駆られて1枚のはがきを投函した。それから始まる啄木鳥の戦法で逆襲。手にした果実で車を入手し、各地へドライブ旅行へ行っりしていた。

2020年1月31日
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まこっちゃん

まこっちゃん

元自動車会社工員、配管工、自動車洗車場、呉服担ぎ屋、土木作業員

昭和61年、琉球大学キャンパス内で架橋工事中に突然脳内出血に倒れる。
以降左半身不随の後遺症が残り1種2級の身体障碍者となる。

昭和64年(平成元年)リハビリセンターで入所中に知り合って交際していた女性職員と入籍。
福岡県粕屋郡古賀町(現古賀市)へ転居。彼女が働き、家事全般は夫がする暮らしを始める。生活費は折半。いわゆる「主夫」となって今に至る。

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