投稿一直線

スポンサードリンク

もう肉体労働者には戻れない。これからは障害年金が頼りの暮らしになる。しかし月額9万円ぐらいでは心もとない。いくらかでも収入の道を探ろうと鶏を飼ったりしてみたが土地がないのであきらめた。結婚を機に家事をするようになった。しかし家事全般を自分がするのではない。家事も生活費も妻と折半することにした。片手では干し物ができないので洗濯と掃除は妻がする。買い物と夕飯の支度が自分の受け持ちだ。

朝食はパンとコーヒをそれぞれが好きなように。お昼は妻は弁当を詰めて持っていく。僕は昨夜の残り物で済ませる。リハビリは受傷後半年で受けられないので自分で屋外歩行するしかない。朝9時になると団地の部屋を出て花見の海岸を目指した。9000歩行で往復1時間かかった。その帰りに古賀駅前の商店街で買い物をしてくる。買い物の目安としては1000円~1500円とした。買い物の要領がわからず買い過ぎやレジ袋の運搬では苦労したがやがて段々慣れてきた。週刊誌の読者コーナーへハガキを書いて3000円程度の謝礼がもらえる事を知り興味を覚えた。

<ハガキ職人>

ハガキに手書きしていると文字がだんだん小さくなってくる。字も下手なので非常に読みずらい。漢字を書けないので、ひらがな交じりの文章だから出すのも勇気がいるが汚い文字はワープロで始末できる。投稿先は平凡パンチやプレイボーといったブルワーカー向けのジャンルだ。文芸誌なとの原稿募集もあるのだがそれらは雲の上そんざいである。中卒土工あがりの中年オヤジの手に負えるものではない。

平凡パンチにトリップトークというコーナーがあり、田舎の青年たちが下手くそなハガキを書いてはせっせと投稿してくる。ハガキが採用されると1000円~10000円程度の謝礼が郵便為替で送られてくるのだ。これはいいなと気合を入れていたら、バブルがはじけて出版不況が囁かれた。1964年に発刊され1970年代には隆盛を誇った平凡パンチも発行部数が減少し、パンチザウルスと改名し再起をはかった。リニュールしたものの焼け石に水であっという間に廃刊になった。インターネットの登場で世の中の流れが変わってしまったのだろう。

<出版不況>

投稿先を失って意気消沈していた。そんなころ公募ガイドという本の存在をテレビで知った。色々なコンテストの情報が掲載されている月刊誌だ。懸賞小説、エッセイ、川柳、短歌、ネーミング、キャッチコピーなどなどたくさんの公募情報が掲載されている。こんなものがあったのかと驚いた。1985年季刊誌として全国作品コンテスト公募ガイドとして創刊され翌年に公募ガイドとして月間誌となったという。自分が脳出血で倒れた年と同じだからまだ存在を世間に知られていなかった。もうやけくそで公募ガイドを読みながら文章とは名ばかりの文字を連ね手当たり次第に投稿した。当然入賞はゼロである。

職業訓練校の試験も受けて一般就労を目指したが、面接官の障害に甘えてはいけないという厳格な指摘に抗弁し落ちた。軽自動車を持っていたのでお歳暮の配達のアルバイトを始めたが、片手で荷物を持って伝票の受け渡しなどできない。左足も麻痺しているので歩行が不安定で、階段が登れない。犬に吠えられると体が固まって動けない。不自由な動作を見かねた軽運送屋のおっちゃんは、もうこなくていいと茶色の封筒を渡した。花見の海岸で車を止めて封筒をあけると千円札6枚と小銭が出てきた。寒風のなか三角波を見ているとポロポロ涙がこぼれた。

<文通>

家の屋根から落ちて頸椎損傷で寝たきりになった人が絵手紙を書いているという記事が新聞で紹介された。これをきっかけに文通のサークルができたので参加しませんかという呼びかけの記事も掲載され参加することにした。最初は絵手紙を書いていたが、片手だとハガキを押さえられないので、文鎮で押さえて文字や絵を書くのがだんだん億劫になる。この点、ワープロだと紙押さえもいらず文字も綺麗なので手書きは止めた。

参加者は健常者がほとんどで何人か障害者もいたが、グループへの投稿は減り参加者同士の個人的な文通へと変化した。障害のことばかり話題にしてると雰囲気が暗くなるので、週刊誌の投稿のノリで文通に励んだ。郵便物が届くのは県内であれば1日~2日。東京だと最速3日で届いた。北九州の58歳の節子と福岡の40代の香とはウマが合い文通ははずんだ。香の旦那がトンネルの会社勤務だというので元土工の僕とは話題がかみあった。旦那は仕事でほとんどいないので退屈しているとも語った。香とは天神地下街でお茶して、週刊誌投稿の話で盛り上がった。「東京々て若い人は言うばってん、福岡もよかよね」

スポンサードリンク

口が臭い

節子が福岡に出る用事があるというので会おうという事になった。JR鹿児島本線の小倉発福岡方面行の電車にのり、同じ車両に自分が古賀駅から乗ることにした。約束の最後尾の車両に乗り込んだ。後部座席にポツネンと座っている地味なグレーの服を着ている女がいたので、声をかけると節子だった。予想以上に老けていた。手紙の中の貞淑な人妻のイメージは一瞬にして崩れた。
話していると口臭がしてきた。気持ちは萎えた。どういう理由をつけて逃げるかを思案する。用事を思い出したので次の駅で降りるとも言えずに、博多駅まで同行した。名物のミニヨンのクロワッサンを買うという理由で逃げた。3日後に節子から楽しかったという手紙がきた。口臭がする女は嫌だともいえずに適当にワープロして茶色い業務用の封筒で返した。

節子は学校の先生をしていたので、旦那意外の男と交際することに抵抗感があった。その反面婚外恋愛にも興味を持っていた。下ネタをふると自分にはできないと言いつつ拒否もしない。

The following two tabs change content below.
まこっちゃん

まこっちゃん

元自動車会社工員、配管工、自動車洗車場、呉服担ぎ屋、土木作業員

昭和61年、琉球大学キャンパス内で架橋工事中に突然脳内出血に倒れる。
以降左半身不随の後遺症が残り1種2級の身体障碍者となる。

昭和64年(平成元年)リハビリセンターで入所中に知り合って交際していた女性職員と入籍。
福岡県粕屋郡古賀町(現古賀市)へ転居。彼女が働き、家事全般は夫がする暮らしを始める。生活費は折半。いわゆる「主夫」となって今に至る。

まこっちゃん

最新記事 by まこっちゃん (全て見る)

スポンサードリンク