福岡県八女郡広川町は、石人山古墳が有名

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福岡県南部の筑後地方の山あいから一筋の流れが田畑を潤し、人々が住み着き古は広川谷と呼ばれていた。集落は山間部から下流に向かって広がりを見せ、一角に、当条という戸数200ほどの字がある。人々はほとんどが秋になると黄金色に実った稲穂の恵みに感謝して暮らしている。

今から400年前の戦国時代は山下城を居城とした。蒲池氏分家の支配下にあった。上妻郡と呼ばれ石高9000石ほどであった。その中で当条の石高は1000石ほどであったというから稲作に適した豊穣の地であったに違いない。

江戸時代になると柳川の立花家の所領となる。北には有馬氏の久留米藩21万石があった。南の福島は天領であったために代官所がおかれてあった。久留米は久留米市となり筑後地方一番の賑わいをみせた。福島は八女郡の農村を吸収合併し八女市となった。明治になると上妻郡は生葉郡の一部と合併し八女郡となった。

久留米市と八女市の間に挟まれ広川町は細長く横たわっている。平成の町村合併で八女市と合併するか、それとも久留米市と合併するのかの選択をせまられた。しかし、どちらとの話も袖にし、我が道を行く方針でまとまった。というわけで広川町だけが八女郡を踏襲している。

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広川町は手つかずの古墳群がいっぱい

そんな九州の片田舎の小さな町のことなど全国レベルで説明するには九州自動車道広川ICがあるぐらいだろうか。特産品と言えばイチゴと葡萄、桃があげられる。バラや菊の栽培、それと米か。何もない故、僕の生まれ故郷である広川町当条を知ってもらうのは非常に難しい。

そうそう忘れていた。古墳群がたくさんある。特に石人山古墳、弘化谷古墳は全国的に有名だ。その他、広川町のHPにはこんな記述がみられる→上広川地区は古墳が破壊されずに良い状態 で残っている貴重な地域です。 3号墳は径10m、4号墳は径12m。ともに横穴式石室が 完全に残っています。

あ、そうだ。豊臣秀吉が九州征伐で薩摩の島津氏を討つために通った昔の道が、下広川小学校の裏を通っている。太閤道と呼ばれている。そんなこと何も知らずに通っていた。

最後に

石人さんって石で作った古代の武人とか馬とかが無造作に放置されていたので、子供の頃石室の中に入って遊んでいた。近所の子供たちの良い遊び場だった。今は入り口は閉じられ中には入れないように整備されている。隣には資料館も建てられている。親父は菜種油を搾って、それを精製して食用油として近在に売っていた。子供の頃油絞りの工場でよく遊んでいた。

 

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まこっちゃん

まこっちゃん

元自動車会社工員、配管工、自動車洗車場、呉服担ぎ屋、土木作業員

昭和61年、琉球大学キャンパス内で架橋工事中に突然脳内出血に倒れる。
以降左半身不随の後遺症が残り1種2級の身体障碍者となる。

昭和64年(平成元年)リハビリセンターで入所中に知り合って交際していた女性職員と入籍。
福岡県粕屋郡古賀町(現古賀市)へ転居。彼女が働き、家事全般は夫がする暮らしを始める。生活費は折半。いわゆる「主夫」となって今に至る。

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