受傷後の事情(3)

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引っ越しは延期

1994年に家は出来た。しかし直ぐに引っ越しはできない。建築費用の900万円を回収するために妻がまだ働くと言い出した。これまで折半していた生活費を全て、僕の年金で賄うことにして、妻の収入は全部貯金する。妻の年収は00万ぐらいだと思う。手取りで300万にはなるだろう。それを全て貯金に回せば3年間で900万円の貯金は可能だ。建築費用は900万円程度に収まったので3年間頑張れば資金の回収ができると計算した。空き家になるなら妹が娘と一緒に住みたいと言うので、固定資産税の支払いのみで了承した。

思惑

妻の給料がいくらなのか正確な事は知らない。妻も僕がいくら年金を受給しているかを知らない。まあ、大雑把に計算して3年間我慢すれば費用の回収はできると踏んだ。それで当分は引っ越しを先延ばしにして時々故郷に帰っていた。自分の気持ちとしては、早く引っ越して、最寄りの荒木駅からJRで通勤すれば良い。
リハビリセンターの裏には徒歩10分の所に千鳥駅がある。当条の自宅から荒木駅までは車で15分だ。快速電車に乗れば1時間でつく。近在から福岡方面に通う人はみなそうしている。僕は、実家のネキダレ(家のそば)で鶏を飼い、野菜を育てることを目論んでいた。

両親の死

1995年10月14日、
夜中に電話が鳴った。出てみると弟からで、親父が突然心臓まひで死んだというのである。すぐ行くと言って電話を置くと、なぜか涙があふれ出てきた。妻はこの様子を見て自分が運転すると言った。夜中の国道を故郷目指して走った。葬儀は母が喪主なり昔ながらの自宅葬である。夜食の準備など隣組から人が来て、葬式の準備なども手伝ってくれる。お寺へのお布施として米一俵を持っていくと言われて驚いた。お金に換算してはいけないそうだ。
母は、子宮がんを患いながらも細々と暮らしていた。妹とその娘が同居していたが次第に弱って、とうとう2000年4月。母危篤の電話が弟からかかってきた。病院に行くと母は、沢山の管を体に付けられてベッドに横たわっていた。人工呼吸器をつけているので、唇がザクロのように割れていた。心臓が止まりそうになると、注射が打たれ電気ショックが与えられる。弱々しい心電図が息を吹き返す。妹が失業保険の受給中で昼間は付き添いをした。

自宅葬

弟は仕事なので、僕が夜の付き添いをすることになった。寝たきりの母は脳死状態であるが、心臓は動いている。いつ心停止になるかわからない。そんな時、一人では寂しかろうと夜中の付き添いをした。古賀から広川までの60キロを高速道で往復する日が1ケ月続いた。そしてとうとう母の心臓が止まったと電話があった。親父の時のように涙は出なかった。母とはよく話をしていた。延命治療は望まない。自然にまかせてほしいというのが遺言のようなものだった。
葬儀は自宅葬である。2回目なので滞りなく終えた。無事に終えて兄弟3人でお茶を飲んだ。「とうとう俺たちだけにになってしまったなあ」と思わずつぶやいてしまった。弟が書類を出した。「兄ちゃん、この書類にサインして判子ばついてくれ」と言った。相続を放棄するという書類である。家も建てさせてもらってるし、若いころ200万円の借金の始末を親父に処理してもらった過去がある。何も言わずにサインした。

妻の不安

2001年9月11日、
夕食を終えてしばらくすると、突然、妻がお腹が痛いと顔を歪めた。とても苦しそうなので、救急車を呼んで地域の中核病院へ一緒に向かった。診察を受けると急性の胃炎だという。しばらく入院して様子を見ることになった。僕は団地の部屋に戻るとテレビをつけた。するとアメリカの国際センタービルに飛行機が衝突したと報じられている。テレビはこの様子を流し続けた。詳細はわからないが、テロのようだと報じられた。
病状は特に急性胃炎以外に問題もなく2晩入院して戻ってきた。妻は内心引っ越しを恐れていたのだと感じた。博多の街で育った妻には農村の暮らしが苦痛に思えたのだろう。兄弟には事情を話して、当分引っ越しは延期することにした。妹も田舎の暮らしから抜けたいとかねてから思っていたようである。

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資金の回収は終えた

僕は早く引っ越して鶏を飼いたいと思っていた。しかし妻は腰痛が次第に改善してきたので退職はしないと気持ちが変わってきていた。家を建てたことを後悔するようにもなっていく。ただ、現金で建てて、借金がないのが救いである。妻が定年になったら引っ越せばよいと思うしかない。
もうこのころになると建築資金の900万円の回収も終えた計算になる。だが詳細は妻にしかわからない。僕の年金で暮らし、家賃は妻の職場から住宅手当が出ている。それに配偶者が重度の障害者なので給与のほかにも2万円ていどの手当てが支給される。なので、もう充分資金の回収はできているはずだ。
厄介なのは階下の老人の事である。相変わらず嫌がらせは続いていた。それで、同じ団地内で引っ越すことにした。7棟から14棟へ移るのだ。各階に全部止まるエレベーターがあるのは7棟と14棟しかない。そのほかの棟は、偶数の階だけに止まるが奇数の階は止まらない。同じ団地内の引っ越しとはいえ、費用は34万円もかかった。これは妻が払った。

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まこっちゃん

まこっちゃん

元自動車会社工員、配管工、自動車洗車場、呉服担ぎ屋、土木作業員

昭和61年、琉球大学キャンパス内で架橋工事中に突然脳内出血に倒れる。
以降左半身不随の後遺症が残り1種2級の身体障碍者となる。

昭和64年(平成元年)リハビリセンターで入所中に知り合って交際していた女性職員と入籍。
福岡県粕屋郡古賀町(現古賀市)へ転居。彼女が働き、家事全般は夫がする暮らしを始める。生活費は折半。いわゆる「主夫」となって今に至る。

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