受傷後の事(1)

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35年前(1985/01/16)脳内出血で左半身不随になった。その後のリハビリで、杖無しで独歩可能となった。緊張が強いので手は全く動かない。足には補装具が必要だ。リハビリセンターで寮母をしていた女性を口説いて所帯を持った。二人とも同じ歳で36歳だった。妻はリハビリセンターで働き、自分が料理をする暮らしを始めた。平成元年に、軽井沢の森の教会で5万円の挙式をしたが、披露宴はしていない。妻は一度妊娠したが流産し、その後も子供に恵まれなかった。

妻の腰痛

結婚してしばらくすると妻が腰痛で動けなくなった。病院で検査しても原因はよくわからない。ヘルニアとか神経系には影響がないのでほっとした。しばらく休養すると妻はコルセットをつけて職場へ通った。寮母という仕事は、入所者の入浴介助とかセンター内の掃除があり、結構な肉体労働なのだ。仕事から帰ってくると飯も食わずにグッタリしている。
疲れ切った妻の様子を見ていると、このまま仕事を続けるのは困難と思えた。住まいは公団住宅で、職員の住宅になっている。妻が失業すれば僕の年金だけで暮らすことになる。月額9万円ていどでは家賃を払うと生活できない。家賃のいらない住居が必要だ。そこで思った。故郷の実家の敷地に小さな家を建てれば暮らしていけそうだと。足りなければ、二人で宅配の仕事をすれば良い。僕が車の運転をし、妻が伝票の受け渡しをすればなんとかなるだろう。

故郷の事

福岡県広川町の実家には子宮ガンで放射線治療をしている母と、昔気質の親父がいる。いずれ介護が必要になる。自分には弟と妹がいる。妹は子連れで離婚し、実家暮らしだ。弟は近くで所帯を持っている。母の介護は兄弟で協力すればなんとかなるだろう。だが、親父の介護となると面倒になることが予想できた。
昔ながらの荒男なのだ。子供のころは食事の不満でお膳をひっくり返すし、叱られてばかりいたので嫌いだった。母は優しくて、野良猫にも残飯を与えていた。勝手口からそっと古い茶碗に持った残飯を出すのである。油絞り工場に居ついていた、茶色と白のキジ猫が母を見ると寄ってきた。が親父は猫を見ると石を投げるので、顔を見ると速攻逃げた。

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アー少年とキジ猫

このキジ猫については思い出がある。近所に一つ年上の少年ががいてアー少年と村人は呼んでいた。僕は彼と仲良しで良く遊んでいた。久留米の聾唖学校にバスで通っていた。3時ごろになると学校から帰り、我が家の油絞り工場の前を通る。その時間になるとキジ猫が日向ぼっこをしている。工場の前に置いてあるムシロの上のひだまりで目を細めている。これを見たアー少年は脱兎のごとく駆け寄り捕まえようとするが、敏捷な野良猫はさすがに捕まらない。
僕はその光景を見てニタニタするのである。ところがある日、猫は油断していた。長さ1メートールほどの煙突が工場の前にあり、その上で目を細めていた。ちょうどそこにアー少年がやってきた。見るなり突撃した。猫は慌てたので煙突の中に落ちた。彼は急いで手で蓋をした。猫はしばらく暴れていたが、やがて生け捕りにされた。少年は満足げに頷いて猫を放った。次へ

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まこっちゃん

まこっちゃん

元自動車会社工員、配管工、自動車洗車場、呉服担ぎ屋、土木作業員

昭和61年、琉球大学キャンパス内で架橋工事中に突然脳内出血に倒れる。
以降左半身不随の後遺症が残り1種2級の身体障碍者となる。

昭和64年(平成元年)リハビリセンターで入所中に知り合って交際していた女性職員と入籍。
福岡県粕屋郡古賀町(現古賀市)へ転居。彼女が働き、家事全般は夫がする暮らしを始める。生活費は折半。いわゆる「主夫」となって今に至る。

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