障害者手帳と診断書、

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昭和60年4月、脳内出血から4ケ月が経過し、急性期病院から転院

国立療養所筑後病院にリハビリ目的で入院することになった。
同じ病棟に池田さんという50代の男が入院していた。脳梗塞で左片麻痺である。
比較的症状が軽かったのか6ケ月ほどの訓練で自転車に乗れるまでに回復した。

池田さんは不動産業を営んでおり、世事に長けているというのか、世渡り上手というのか、主治医の元へ高級ウイスキーなどの贈答品を欠かさない。ナースセンターへの差し入れも。外出しては菓子や鮨の手土産で看護婦らを機嫌をとるなど抜かりはない。

そんな池田さんが、障害者手帳の申請をすると言い出した。手も動くしほぼ治った感もあるので、障害者手帳がもらえるのかと僕も入院仲間も思っていた。池田さんは障害者手帳の2級をもらうぞ、と意気込みを語った。主治医の先生は、池田さんから2級になるように書いてくれと執拗に頼まれた。そんな事はできないと断ったが、高級ウイスキーの手前もある。むげにはできない。

今西先生は書類を一通り書いたが、医師の意見書欄は空白にした。何級に相当するという事は書かなかった。2級とは書けないので、自分で書いてくれと、池田さんに告げた。こうして池田さんは、自分で2級と書き込み障害者手帳をもらったのである。入院仲間の高木さんも僕も、池田さんの鮮やかさに舌を巻いた。当時34歳の世間知らずだった僕は、そんなことができるのかと、8病棟の休憩所で、NHKの朝ドラ「みおつくし」を見ながら世間の機微にに驚いた。

「山下君、世間とはそうしたもんよ」と高木さんがと言う。彼は42歳で脳梗塞に倒れ、左片麻痺になった。倒れる前は総会屋をしていたと聞かされていたので説得力のある答えだった。この当時、沢口靖子がNHKの朝ドラ「みおつくし」でデビューし、可憐な16歳として世間の注目を浴びていた。

やがて僕も障害者手帳を申請することになり、脳卒中の主治医の先生に書類を書いてもらって、「先生、僕も2級ですよね」と聞いたら、「アンタは装具を付けて歩けるから3級だな」と言われたので猛烈に抗議した。こうして僕は2級の障害者手帳をもらったのである。

ある日、ナースから医局まで連れて行かれた。医局というのは医師たちの休憩所みたいなもので、ふかふかの絨毯が敷かれ豪華な応接セットが置かれている。コーヒーメーカーから良い香りがプーンと漂う。
「山下さん、労災の件はダメです」とハッキリ告げられた。

しばらくすると労災棄却のハガキがきたので、荷物をまとめて出て行ってくれと病院の事務局で告げられた。仕事中の脳卒中にもかかわらず、僕は持病として処理されてしまった。労災がダメになったので健康保険で清算をすることになり、一部負担金の42万円を生命保険の入院給付金でやっと払った。

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最後に

今西先生は福岡県の身体障碍者手帳の判定医をしているのだと、後で知った。池田さんは、退院してからも度々病室へ遊びにきては、今度は、障害年金の申請をすると意気込んでいたが、その後どうなったかはしらない。総会屋の高木さんは有名な仏教系の団体から勧誘を受けて、入信したと告げられたが、その後の消息はしれない。
当時は、手術をするときは、医者に謝礼金を渡すことが、まことしやかに語られていた。また、国立病院等においては金品の贈与はお断りします、という張り紙があった。

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まこっちゃん

まこっちゃん

元自動車会社工員、配管工、自動車洗車場、呉服担ぎ屋、土木作業員

昭和61年、琉球大学キャンパス内で架橋工事中に突然脳内出血に倒れる。
以降左半身不随の後遺症が残り1種2級の身体障碍者となる。

昭和64年(平成元年)リハビリセンターで入所中に知り合って交際していた女性職員と入籍。
福岡県粕屋郡古賀町(現古賀市)へ転居。彼女が働き、家事全般は夫がする暮らしを始める。生活費は折半。いわゆる「主夫」となって今に至る。

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