闘病記(不愛想な女・1)

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昭和60年11月1日
福岡県身体障害者リハビリセンターへ入所した。弟の繁雄に車で送ってもらった。博多駅からそう遠くない人口3万人強の鄙びた街にあった。リハビリセンターでの入所生活は、午前中は2時間。午後からも2時間の理学療法や職業前訓練といったプログラムが組まれている。およそ100人の障害者が寝泊りしながら社会復帰に向けて、訓練に汗を流していた。

リハビリセンターでは年末になるとセンター祭という催しがあり、入所者と職員の双方から一人ずつ司会者を出すというのが決まりになっている。入所者が集められ、司会をする者はいないかと職員が問うたが全員下を向いたままである。受傷後間が無い人たちばかりなので、どうしても気持ちが萎縮してしまう。その日は決まらずに終わった。

後で生活指導の職員から司会を引き受けてくれないかと言われ、多少不安だったが頷いた。職員側は寮母の里中まり子に決まった。スラリとした丸顔の博多美人である。彼女は近くの公団住宅で一人暮らしているという。

彼女のことを最初は、とても無愛想な女だと思っていた。以心伝心とは良く言ったもので、向こうもこっちを嫌な奴と思っているのがそれとなく感じられた。それまでの二人は、必要以外口を利いたことがなかった。しかし、祭りが近づくと、そういうわけにもいかなくなる。

打ち合わせで顔を合わせるようになり、次第に気持ちもほぐれていった。入所者で何か出し物をやらねばならない。ひとつは簡単な寸劇。そしてカラオケ大会。もうひとつぐらい入所者でやってくれと言われた。

「バナナの叩き売りでもするか」
以前、正月にテキ屋の親方の所にバイトに行ってた事を思い出して口走った。

「しかし、口上がわからんもんなあ」

とそこにちょうど居合わせた60歳になる左片麻痺の西村さんが、矯正台に立って話を聞いていた。

「バナナのたたき売りの口上ならば知り合いにきけばわかるよ」

「へえ、なんでまた西村さんがそげなことわかりんしゃると」

「うん、おどんな果物屋じゃけんね。大道青果のキンちゃんが昔、バナナ売りばしよったけん、キンちゃんに聞くとわかるじゃろ」

バナナの叩き売り

なるほど。そういうことなら合点がいく。で、さっそくキンちゃんに電話をして口上を書いた手紙を送ってもらうことにした。3日後に届いた手紙を元にバナナ売りの口上の原稿作りにかかった。不勉強の身にはこういう文字を扱う事は大変難儀なことである。キンちゃんの文字が汚くて非常に読みづらい。まり子に手伝ってもらってなんとか原稿を作り上げた。
春よ三月春雨の、桜の花の咲くころに、
奥州仙台伊達候が、なぜにバナナにほれたのか、
バナナの因縁きかせやしょ、
このバナナのお生まれは、暑いわ暑いわ台湾の、
新高山の麓にて、花よ蝶よと育てられ、一寸二寸と太ります、
娘でいうなら一五、六、ポォーと色気の着いたころ、
国定忠治じゃないけれど、唐丸籠に詰められて、エッサヤッサと運ばれて、
チロリン島を後にして、沖縄島を右に見て、有明海を見渡せば、
着いた所は門司港で、門司でモジモジしていたら、
一番列車に乗り遅れ、二番列車は満員で、三番列車に詰め込まれ、
博多で歯形のいく松に、鳥栖でトストス走り出し、
久留米でクルクル目を回し、着いた所は熊本で、
ちょうど賑わう招魂祭、祭りをボォーと見ていたら、馬に蹴られて痛かった、
さあ買うたさ買うた、このバナちゃん買うたなら、
三年三月は長生きする、長生きせんときゃ運の悪かつ、

読んでみると実にリズミカルな文章で面白い。しかし、これを全部覚えても節回しができない。が、棒読みでもいいから後は適当にごまかしてしまおうと、みんなで決めた。そしてなんとか無事にクリスマス会も終了した。

変化

センター祭が終わる頃には、すっかりまり子とも打ち解け、手紙を書いて告白もした。電話もかけるようになっていた。お互いに男女として意識するようになるとそこには恋が芽生える。

バナナの叩き売り口上の原稿作りをしてから文章というものの面白さに興味を持った。どうしたらあんなに面白い文章を書けるようになるのか不思議に思えた。リハビリセンターの中にもクラブ活動というものがある。新聞部があってミニコミ誌を発行していた。その新聞部の顧問をしているのが、弓削先生である。

部員が少ないらしく僕にもお座敷がかかった。土木作業など重労働しか経験がないので自信が無かったけど入部した。手書きの原稿をワードプロセッサーというタイプライターの親方のような機械に文字を打ち込んでいく。すると機械がきれいに印刷してしまうのである。字が書けなくても良いという。その機械を障害者が使っていたので仰天した。

 

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文豪というワードプロセッサーは

80万円もするものらしい。弓削先生に操作方法を習ったが何が何やらサッパリわからない。原稿の集まりが悪いので何か書けと言われたが、どのように書けばいいのかチンプンカンプンなのだ。それでも頼まれると悪い気がしない。エンピツを舐め舐め金クギ流のひらがなの多い文字を便箋に連ねた。

ある日、新聞を読んでいると読者欄というものがあって投稿できると書いてある。思いつくままを書いて投函してみた。数日後に毎朝新聞に掲載されていたので吃驚すると共に嬉しくなった。おまけに図書券まで送付されてきたのである。これから投稿にはまってしまい、雑誌や週刊誌にまで進出を図ったが成績は振るわなかった。リハビリセンターには1年6ケ月入所していた。

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まこっちゃん

まこっちゃん

元自動車会社工員、配管工、自動車洗車場、呉服担ぎ屋、土木作業員

昭和61年、琉球大学キャンパス内で架橋工事中に突然脳内出血に倒れる。
以降左半身不随の後遺症が残り1種2級の身体障碍者となる。

昭和64年(平成元年)リハビリセンターで入所中に知り合って交際していた女性職員と入籍。
福岡県粕屋郡古賀町(現古賀市)へ転居。彼女が働き、家事全般は夫がする暮らしを始める。生活費は折半。いわゆる「主夫」となって今に至る。

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