青春の記

スポンサードリンク

昭和41年福岡県八女郡広川中学校卒業

 

朝礼の様子

 

3年に進級すると、どこの高校へ行きたいかと尋ねられた。進学しませんとキッパリ言った。
「これから先は、高校ぐらい出とらんと嫁御(よめご)の来てもなかし、就職も太か会社に行かれんぞ。高校だけは行っとかんね」

というのが世間の雰囲気であった。誰でも行ける西日本短大付属高校や久留米工業の選択肢もあったが勉強が嫌なので考えもしなかった。クラスでは中卒で女工や工員になった者が10名程度いた。378人中の346番程度の成績で卒業した。勉強のヘタレ度は、自分が最下位だと自負していたのに、まだ下の奴がいたのかと、たまがった。

試験があると出席番号と名前だけを書いて答えは白紙で出すのが常であった。これでまた先生から殴られた。授業中は手遊びをし、飛行機の本をコッソリ読んだ。先生たちはとうとう教育することを諦めた。成績の良い生徒を集め、まことは異常性格者だから近づくなという指令が出たのである。
そして昭和41年3月、なんとか広川中学校を卒業した。卒業式が終わった3月21日、3年4組の同級生男女合わせて13人が集まって免状祝をすることになり自分にもお座敷が掛かった。

就職先は福岡市にあるトラックの荷台を製造する会社である。勤務地は福岡のはずだったが入社後3日で同期入社の10名全員東京工場へ転勤を命じられた。東京と言ってもタヌキが出そうな町田の畑の中であった。だがホームシックにかかって半年で当条に戻った。父ちゃんに怒られると思ったが両親は何も言わなかった。福島の職安に行って就職先を探した。今度は久留米の鹿田ボデーと言って、自動車の板金塗装をする小さな町工場である。塗装工見習いで月給8000円である。しばらくは弁当持ってバス通勤した。不自由なので原付免許を取ってバイクで通勤することにし、スズキの50CCバイクを自転車屋のコーチャンに無理を言って月賦で買った。

町田の寮の前

寮の前で撮影。そばにトラックの荷台を作る工場があり、いすゞのトラック、エルフと日野レンジャー(2t)の車体を製造していた。工場の隅で浅田さんという初老の人からスプレーガンの使い方を教わり、フェンダー専門で塗装をしていた。昼休みに誰かに撮ってもらった。

 

17歳

福岡ボディーを半年で辞めた。久留米の鹿田ボディーに塗装工見習いになるも半年で辞める。実家でテレンパレンとしていたころ、同じ村(当条)の同級生のタカフミと当条の日吉神社の境内で写真を撮ってもらう。タカフミとは小学生のころ仲良くしていた。いつも一緒に遊んでいたが、彼が福大へ進学してから遊ばなくなった。同級生ではタカフミとヨシユキの2名が福岡大学に通学していた。タカフミとヨシユキの両名は大学生になったことがよほど嬉しかったらしく、僕と溝ができてしまった。とはいえ、狭い集落の事ゆえ、表面上は平静を装うのが村の掟でもある。胸に差したのは椿の花。

 

スポンサードリンク

18歳、テレンパレンのころ、

けんちゃんと黒木のちんぽ岩に遊びに行った時のショット(一条村の同級生、渡辺健治)見知らぬ女が2人連れできていたけど、当時は恥ずかしくて声もかけられない。けんちゃんとは小中学と同級でどちらもヘタレなので2人してよく先生に叱られていた。けんちゃんは西日本自動車整備学校を出て日産の追浜工場に就職していった。が、3交代勤務にネを上げて1年もしないうちに故郷に戻ってきた。彼の父親は、インパール作戦からの復員兵なので、家に遊びに行っても厳しくて怖かった。

けんちゃんはトヨタのスターレット1000CCとカメラを所有していた。

渡辺けんちゃんと黒木笠原のちんぽ岩にて、二人の女と会うも声掛けできない。ちんぽ岩とは地元の言葉である。

福岡県八女市黒木町笠原 … 左の奇岩は日本三大奇岩である珍宝岩(ちんぽうがん) 別称「男岩」 高さ:12m、直径:4m 霊巌寺には日本三大 … 珍宝岩(男岩)

17歳~19歳

昭和42年12月30日
従兄弟の昌光とカズオが正月休みで当条に帰ってきた。二人ともジャンパーではなくおしゃれな洋服を着ていたので驚いた。31日の夜は元家に寄って紅白歌合戦を見た。
「まさみっちゃん、そりゃあ。なんちゅう、着物(きもんね)」
「おお。こりか。こりがブレザーちゅうとぞ」
「ふーん。高かとやろね」
「1万円た」
自分の一ヶ月分の給料だと聞かされてうらやましく思った。そしてカズオは発売されたばかりの緑色に塗られたカローラ1100に同乗して当条に現れた。
「プラス100ccの余裕」
というテレビコマーシャルが当条の茶の間にも流れていた。日産自動車の1000cc車サ二―が発売され、その対抗馬としてトヨからタカローラが発売されたのである。誰もが1000ccのエンジンを搭載していると思っていたが、実際にフタを開けてみると1100ccだったこともあって世間の注目を浴びていた。
やっとこさ。スズキの50ccバイクを手に入れた僕には乗用車など夢のまた夢である。吃驚したなんてもんじゃなかった。と言ってもこの車はカズオの友人の持ち物だ。愛知県出身の同僚工員が所有するカローラ1100だったのである。この工員は九州へは行ったことがないというのでカズオの帰省に着いてきたと話した。鹿児島へドライブ旅行に行くというので同行した。桜島の煙をフェリーの上から眺めていると、爆発したら怖いだろうなあ。と。そう思ってしまう。
愛知の青年が18歳で普通自動車の免許を取得し、すでに乗用車まで持っていることには衝撃を受け、精神が飴方のようにヘナヘナになった。

昭和30年後半から40年にかけては日本もモータリーゼーションへと突入し、各自動車メーカーが続々と新型車を開発し量産体制を敷いた。どの企業も慢性的な労働力不足で工員確保にやっきとなっていた。
田舎の村役場、職業安定所は申すに及ばず、自衛隊退職者、街にたむろする若者、従業員の縁故者にまでボッシューの触手は伸びていた。
だいたいどこの会社にも人事部採用課というのがあって、帰省する工員らに親類縁者を勧誘させた。現場の責任者である、工長・組長から因果を含められている昌光もカズオも僕に向かって甘い息を吹きかけた。
「まこ。ガンガン屋は辞めておまいもトヨタにこんか。給料は3万円なもらうぞ」
「ほ。ほんなこつか!」
日給月給1万円の日給月給にとって3万円は衝撃だった。中学を出ると当条の幼馴染らもそれぞれに新しい世界へと羽ばたいていてヒココの付き合い以外遊ぶ事も無くなった。正月休みが明けても大坪自動車へ行くのが嫌になってズル休みを続けた。しばらく実家でゴロゴロしていたがやがて福島の職業安定所を尋ねた。
「あのう。トヨタ自動車のボッシューはまだあっとりますかの」
「ええ。今度は1月15日に採用試験がありますよ。どげんせらっしゃるですか。受けらっしゃるなら履歴書ば持って15日、午前9時にここの2階へ来てください」
「はい、わかりました。ほんなら15日に来ますけん。どうもすんまっしぇん」
帰りしな、福島のデパートの前でバイクを止めた、文具コーナーで履歴書を買った。ついでに、土橋の交差点にあるかぶと饅頭屋に寄った。黒餡と白餡入りのおわん型の回転饅頭を求めた。関東では今川焼きだという。これは少年週刊誌で知った。
試験は算数と国語である。それでも分数ができなかった。通分が理解できないのである。入社試験と言っても形式的なものだった。ましてや従兄弟と同じ村の出身者がいるというので採用は決まったも同然。というよりも1時間後には合格と告げられて入社説明会へと進んだ。

昭和42年3月
採用課の指示通りの住所へ蒲団をチッキで送った。そして昌光と一雄の母親から故郷のお土産を持たされて国鉄鳥栖駅から急行列車雲仙・西海に乗り込んだ。当条から、ヒロトシ、トシオ、サカエ、ヤスノリ、タカフミ、オサムが見送りにきた。列車が出るときホームにならんで万歳をしてくれた。瞼はうるうるになった。ホームの人影がアズキのように小さくなると涙がボロボロとこぼれた。

勤務先は衣工場の第二生産技術部原型課検査という部署である。何やら難しそうな名前だ。中学出の身に勤まりそうか不安であった。これまでは同じ工員でも塗装屋や板金屋と言った作業だったが今度は勝手が違った。
自動車の車体をプレスする原型を作るセクションであるから実に細かな作業をせねばならない。0.05ミリ単位での測定だ。
まず、プレス用の金型を作るための原型になるマスターモデルが実物大に樹脂で作られる。この原型から石膏で金型と冶具用の複製を作る。この石膏の型の表面を機会がなぞっていく。金型削りの機械には石膏の原型通りに動くドリルが付いていて、城の石垣のような鉄の塊を削ってゆくのである。たとえば、人が右手で物の表面をなぞると左手は右手の動きを忠実に再現する。
この金型作業は原型課ではなく、工機課といって原型課の隣にあった。トイレ休憩のついでに覗くと、門型の大きな機械がゴーゴーと音を立てていた。オイルの匂いが漂う現場では安全靴をはいた工員がしきりにボタンをいらっている。
フェンダーの石膏が台にくくりつけられていた。その石膏めがけてドリルの歯が下りてくる。刃先はバナナのように丸くなっていてフェンダーの形状にそって少しづつなぞってゆく。すると反対方向に設置された鉄の塊がハガネのドリルによって忠実に削られる。プレスの金型が出来上がる様子を熱心に見入った。
「フムフム。こうやってできるとやねえ。ドイツ製やというが、うまい機械を考えたのう。さすがばい」
自分が入社したころ、ちょうどコロナマークⅡが生産の準備を終えラインに乗ろうとしていた。ライバル日産自動車のブルーバードと熾烈なシェアー争いの真っ只中にあった販売の最前線では新型車の発表が待たれていた。
国内の自動車メーカーはどのクラスも新型車の開発にしのぎを削っていてどの職場でも忙しく残業をしていた。毎月50時間の残業はざらで時には100時間に及ぶこともあった。

急性肝炎で故郷に戻り病気も治ったので、トヨタ自動車に戻った僕は、職場の組長に退職したいと申し出た。

「ほうだな。騒ぎのこともあるで。ここにおっても芽が出らんだらあで。田舎に帰った方がいいだらあ」
寮で喧嘩したという経緯があったので、簡単に受理された。さっさと荷物を片付けて準備をしていると、同期入社のチサコとミノルが送別の宴を張ってくれるという。場所はチサコの実家である。その夜、ミノルの車(カローラスプリンター)に乗せられてチサコの部屋で小宴会が催された。

昭和44年9月半ば。

故郷の当条へ戻った。母屋と離れたマッチ箱の家に住むことにした。福島の職安に出向いて失業保険の手続きをした。まず、ここに暮らすなら足を確保せねばならない。このころになると広川~久留米線の堀川バスの運行も日に3本と減少していた。車かバイクでも無いと。川瀬のバス停まで2キロを歩くしかない。
中古のバイクを探そうとして、自転車屋のコーチャンを尋ねた。数代のバイクが店先に並べてあった。けど。どれも手が届きそうに無い。免許は原付から自動二輪を取得しているので90CC程度が欲しい。店の裏に回ってクズ鉄置き場見ると隅の方に地金同然のホンダCS90が目に入った。
「裏にあるCSはいくらね」
「おー、ありゃあ。地金同然やけん。5千円でよかぞ。ばってん。動くかどうかわからん」
本気で買うとは思っていないのでついコウちゃんの口が滑った。
ヨレヨレで動くかどうかも定かでない。が。僕はどうしてもこれが欲しくなった。このCS90は、しばらく前まで若者たちの憧れの的だったのである。特に真っ赤な色のCS90に強い憧れを持つ若者が多かった。が。これは生憎と黒である。
「うん、ほんなら5千円ね」
ポケットから速攻で5千円札を出した。コウチャンは一瞬、
「しまった」
という表情をしたが平静を装って受け取った。
アジトまでバイクを押して行った。夕刻だったにもかかわらず僕はCS90の復元に全精力を傾けた。プラグとエンジンオイルを新品と交換しエンジンを掛けてみた。2~3度キックすると、
「バババ、バババ」
ときたので、キャブレターの調整をしてからバイクに跨ると再度キックした。
「ブルルルー」
「お、掛かった」
ドキドキしてハンドルの右グリップをグイと回した。
「ブーンブーン」
回転が順調に上がる。嬉しくなって、クラッチレバーを引いてギアーをガクンと踏んで徐々に繋いだ。CS90は勢い良く飛び出した。今度はギァーを蹴り上げ、サード、トップにして周囲の農道をグルリと回った。
「キャッホー!」

塗装はお手の物だ。直ちに燃料タンクを取り外し、作業にかかった。まず、タンクとフレームに丹念に水ペーパーをかけた。乾かしてから布で吹き上げる。メッキ部分をテープと新聞で養生してから市販のスプレーで丁寧に塗った。最初はサーッと薄く塗る。それから徐々に塗りを深くする。あまりゆっくり塗ると塗料が流れるので注意が必用だ。こうして黒から赤色に塗り替えた。
塗り終えると乾くのを待って、シートにはヒョウ柄のカバーをつけ、ハンドルを一文字に変えた。ポンコツだったCS90が新品同様によみがえった。
「兄ちゃん、カッコようなったね」
作業中から弟が頻繁に覗きにやってきていた。
「おお。ほんなもんになったろうが」
これが後に広川でちょっとだけ有名になる僕の5千円の赤バイである。

19歳

成人式を終えると職探しに久留米の職安を訪ねた。中学卒の学歴では工員や店員、トラックの運転手などの募集ばかりだ。その中に三和商会というのがあって、
「作業員募集・18歳~30歳・日給月給3万円・学歴不問・要普免・8~5時勤務・住所
久留米市上津町・TEL・092~41~0088歴参」
これにしようと思った。
「この、要普免と歴参ちゃ、何ですか?」
窓口にいる初老の男に訪ねた。
「普通免許がいるちゅう事と、履歴書を持ってきてくれちゅう事ですばい。行きんしゃるなら電話ばかけてみまっしょうかね」
「あ、はい」
「モシモシ、こちらは久留米の公共職業安定所ですが。今、山下さんちゅう19歳の方がお宅に面接に行きたいち言うとらっしゃあですが。都合はどげんですかね。明日の午後2時頃がよかとですね、わかりました」
「明日の午後2時だそうですが行かれますか?」
「はい、行きますけん」
赤バイに乗って約束の時間に行った。会社とは名ばかりで鉄骨にスレート屋根が被さった小屋である。隅にベニア板で囲われた部屋がある。小さな机と簡単な応接セットが置いてあり、頭を心斎刈りにした、中年の男が待っていた。シゲが履歴書の入った封筒を差し出すと目を通し、
「仕事はシャッターの取り付け。勤務は8時~5時まで、休みは日曜日。月給は3万円、通勤手当は無し。これでよかったら明日から来てください」
こうして今度ははシャッター屋になった。三菱キャンター(2トン)に3人乗り込んで、電気溶接機と部材を積んで出発する。筑後地方一円をシャッターの取り付け工事をして回らねばならない。シゲはガンガン屋の経験があるので電気溶接はお手の物だ。難しいのはシャッターの板を切る事だった。取り付ける場所の間口に合わせて波打った薄い板を金切りノコで切っていくわけだが、これが存外難しい。自動車の鉄板は0・6ミリ以上あるので切りやすいがシャッターはそれよりも薄いから非常に切りづらい。力を入れ過ぎると金切りノコの歯が直に折れてしまう。
雨が降ると合羽を着て赤バイでやってくる僕を見て部長が、
「大変だろう。知り合いが中古車を扱っているので、車を買うなら世話してもよかぞ」

胸が弾んだ。ほとんどの友達が車を持っている。スズキフロンテ360が8万円であるという
「俺も車が欲か」
しかし金が無い。欲しくてたまらないが8万円という現金の工面がつかない。母に言えば、一蹴されることは目に見えている。下手をすれば父ちゃんから頬下駄を打たれかねない。中古屋のおっちゃんに月賦にしてくれと頼んだが現金払いで無いとダメだという。見かねた部長が助けてくれた。
「うちの会社で手形を切ろう。毎月8千円ずつ給料から差し引けば良かたい」

3日後には三和商会の前にスズきフロンテ360が届いた。白い塗装に全くツヤの無いヨレヨレの軽自動車である。しかし、2サイクル25馬力のエンジンは快調に回る。走りも軽快だ。さっそく当条のアジトに持ち帰り洗車をした。ワックスをかけるがしっかり水垢が付いていてピカピカにはならない。プラスチック製のひ弱なハンドルには包帯をグルグル巻きつけて握りをよくした。右のドアーにはフェリックスキャットが爆弾を抱えたマークをプラカラーで描いた。プラモの塗装に使うプラカラーが残っていたのでそれで描いた。
「普通の2サイクルエンジンとは違う、CCI方式じゃけんね、馬力も強かぞ」

とは自分の手前味噌な思いで、有体に言えば只のポンコツ車だ。シャッター屋になってからトシアキとは会っていない。風の便りではスレート屋に就職したと聞いた。屋根や壁を貼っていく仕事だがこれは死ぬほどキツイ。
シャッター屋になってからは麻雀の誘いが多くなり、遊び友達が浪人や学生へと変化した。ある時、麻雀仲間のペーさん(北川)から自動車のワックス掛けのパーフェクトセンターで働かないと持ちかけられた。月給は4万円という。すずきフロンテの支払も終わったので転職することにした。

青年団は農家の人がほとんどで、商家や勤め人はほとんどいない。しかし、青年団長は年代別に順送
りされる 習わし。戸数200の当条には10名の同級生がいた。小学生になると毎月1回友達の家に集まって昼間は遊び、夕食を食べるとテレビを見たり泥棒ごっこをして遊んだ。毎月子供貯金をし、15歳になると英彦山神社へ詣でる。これを「英彦講」と言う。

青年団を自分たちの年代でやらねばならなくなった。仲間の内2名は青年団に参加していたが他の者は不参加である。このままでは自分たちの代で青年団が潰れる。それで、英彦講の席でみんなで話し合い青年団に入る事にした。

問題は誰が団長になるかである。みな厭がるのでクジ引とした。しかし、クジを引いた当人が絶対厭だと言う。それで、自分が手を挙げて団長になった。

 

昭和50年9月初旬、午後、

 

アジトの前で、車はトシアキのファミリア800

「おーい、まこちゃん、おるかい。私じゃん。遊びに来たばい」
「おー、トッしゃんかい。どげんしたと、入らんかい」
「連れがおるばってんよかね」
知った者(もん)なら真っ直ぐ来るから、知らん奴に違いない。
「うん、よかよ、」
ガシャピーンと破れ障子が開いて唐芋(といも)顔が現れた。後ろには女の姿が見える。美代子に違いないと思った。
「シゲちゃん、これが美代子たい。今日は泊めてくれんね」
女のことは聞いていたが、実際に会うのは初めてだ。美代子はニコっと笑った。笑うとエクボができた。瓜実型の可愛い顔で男好きのするタイプだ
「えー、そりゃあ、よかばってん、布団のひとつしかなかけん。炬燵で寝るならよかよ」
二人はアメリカラムネのホームサイズとバタピーを持参してきた。コーラは湯呑に分けて飲んだ。そして美代子が言った。
「うちねえ、今度の土曜日に会社の専務からご飯食べようって、誘われたとよ」
「なんかそりゃあ、おまえはその専務からボ○されたっちゃなかろね」
トシアキが不機嫌そうに言った。
「なーん、そげんことはなかよ」
それから二人でぶつぶつ言い合いを始めた。シゲは布団に潜った。うつらうつらしていると物音がしてきた。目を凝らすと、炬燵の中で何かゴソゴソしている。
「エヘン!」
とやるとそれからは静かになった。
朝目覚めたのは7時だ。トシアキと美代子は大急ぎで身づくろいをするとファミリトラックのエンジンをかけて出て行った。

アジトで航空ファンを読んでいると、車の音がした。しばらくすると破れ障子が開いて、唐芋(といも)顔がヌッと現れた。
「トっしゃんかい」
「はい、私じゃん、上がらせてもらうばい」
スリッポンの靴を脱いで炬燵に入ってきた。
「丸下被服の専務から金ばもらおうち、思うとるけん、加勢せんの」
「えー、なん、そりゃあ?」
「うん、俺の女に手出したけん、どげんしてくれるかち、電話ばしてきた。今日午後3時に「フルーツポンチ」に呼び出したけん、アンタも一緒に来んの。まこちゃんは何もせんでよかけん」
付いて行くだけでだけでいいならと思った。どうせ暇だしすることも無いのだ。
「友達に名古屋帰りの汚れがおるけん、今から連れて会社に行くけん、話会おうち言うたら、それは困るけん、どこかで会おうち、専務が言うた。金ば払うけん、かんべんしてくれち言う口ぶりやったけん、3万円は握るばい」

僕は名古屋の汚れという設定になっていた。遊び手がジャンバーではマズイ。薄いグレーの背広があるのでそれを着ることにした。あいものだから少し寒いが我慢するしかない。これに安物のソフト帽を被ってマッチの軸を燃やして炭で口ひげを書いた。薄いサングラスをかけるとそれらしく見えるようになった。

西鉄久留米には午後2時半ごろ着いた。駅裏の空き地にNコロを止めて「フルーツポンチ」を目指した。ドアーの取っ手を引くとカランコロンと音がした。中をのぞくと奥のテーブルに中年の男が座っている。不安気な様子が伺える。
「まこちゃん、ここに座っとって」
トシアキはそう言うと男の方に歩いていった。
シゲは入口のテーブルに着いた。
店員がおしぼりと水を持ってきたので、
「ブレンドひとつ」
他人を脅かすなんて、考えてみた事も無いのでこれからどうなるだろうと心配になってきた。
トシアキは男に近づいて話をしていたが直ぐに戻ってきた。
「ちょっと行ってくるけん」
「どうしたとね」
「金ば払うけん、一緒に来てくれち。相手が言いよるけん、行ってくるたい。まこちゃんなここで待っとかんね」
30分もすれば戻ってくると思っていたが1時間過ぎても何の連絡もない。シゲはだんだん不安になった。しかし、このまま帰るわけにもいかず、一杯のコーヒーで長時間いるのも気が引けた。2時間過ぎたのでいたたまれなくなって、
「ブレンドコーヒーとトーストください」
一人で帰るにしてもこんな格好じゃ、バスにも乗れない。軽食を食べ終わってハイライトをふかした。時計を見るとすでに3時間が経過している。 この辺が限界と思った時、入り口がカランコロンと鳴った。ドアーが開くと唐芋顔が見えた。肩を落として戻ってきた。トシアキは椅子に座るなり、
「シゲちゃん、終(しま)えたばい。諸富組に連れていかれた。にあがりよっと熊の檻に入るっぞち言われた。檻のそばに連れていかれたけん、えずかったあ」
「えー、羽犬塚(はいんつか)のあの諸富組か。そこに連れて行かれたとね。そりゃまたどうして?」
「専務がヤクザに脅されとるちゅうて、頼んだとげな」
羽犬塚は久留米から南の方に10キロほど離れている。戦後になって諸富組というヤクザができたが、今は県会議員に衣替えしている。企てはあえなく終(しま)えた。
そしてこげん言われた。
「君はまだ若いんだ。ぶらぶらしとってはいかん。自衛隊に行って修行をしてきなさい。言う事をきかんと終(しま)やかすぞ!」
最後の言葉は迫力が違ったそうだ。
「すぐ電話で久留米の自衛隊に入る手続きばされた」
「ふーん、終(しま)やかすち言われたら言う事ば聞かないかんのう。ばってん、熊の檻に入れられんでよかったやんの。で、いつ自衛隊に行くとね」
「12月15日には行かないかん」
それから二人で12月14日の夜中まで遊び回ってトシアキの家に泊まった。早朝6時に起きるとシゲは赤バイにトシアキを乗せて久留米市高良内にある陸上自衛隊へ送った。
それから2日後に今度はシゲのアジトに自衛隊の勧誘係りが現れた。
「な、山下君、海上航空隊に入らんかい」
菓子袋参で連日口説かれた。体力には自信がないし喧嘩も弱い。迷いに迷ったが海上航空自衛隊というのにひかれて入隊を決意した。簡単な試験と尿の検査があった。去年の夏は急性肝炎で入院したので、小便は便所で勧誘員の尿を入れて渡した。こうして自衛隊へ行くことになった。入隊日は明けて1月11日と決まった。

この事を中学の同級生で級長だったエツオに話すと、壮行会を開くと言い出した。緊急に中学の3年4組の同級生に召集がかけられた。昭和51年1月10日、上広川の吉常にある料亭丸十に席が設けられた。マルケイ、ペコ、コウシ、ヤギ、トモコ、ケイコ、ヒサコ、ヒロコ、カズコ、エンナリ、ジャン、エツオという面々が集まった。
宴会が終わると、
「まこちゃん、入隊ばんざあい!」
1月11日早朝、アジトへジープが迎えにきた。長崎の相浦にある海上自衛隊へ連れていかれた。基地の中にはカッターという船が並べられていた。オールの握りが黒く汚れている。
「あれは君の先輩たちが訓練で手に血豆ができてそれが破れて黒く跡が残った」
と説明され卒倒しそうになった。自分にはとうてい無理と思い入隊はしないと言い張った。勧誘係のジープで当条のアジトに戻ったとき家族は驚いた。もっと驚いたのは壮行会を開いてくれた同級生たちである。
「まこちゃんば川瀬で見たばい」
とヒロコ。
「シゲちゃんは自衛隊に行ったよ。遅れたとかな?」
などと噂しあった。
1月15日、午前9時、寒気はあるが絶好の晴天である。広川中学校の玄関に昭和41年卒業の面々が集まり始めた。時間の経過を経て人の列は式場の体育館へと移動する。
黒いスーツに赤シャツに黒と白の縞模様のネクタイ姿のシゲの顔もあった。下広川、中広川、上広川に分かれ、それから集落別に並んだ。シゲは当条の列に並んだ。当条の連中はシゲが自衛隊を1日で逃げ出した事はまだ知らない。
378名もいるから次第にガヤガヤと騒がしくなってきたが、式次第は順調である。やがて閉会の挨拶があると、男女混合の輪があっちこちにできた。すると聞き覚えのある声がした。その方向に目をやると、なんとあの唐芋(といも)顔が見えたので仰天した。
「おい、トッしゃん、自衛隊はどげんしたとか?」
自分の事は棚に上げて思わず問うた。
「あ、まこちゃん、自衛隊にはもういかん。朝礼の時、タバコば吸いよったら、教官に怒(が)られたけん、頭にきて辞めた」
「ふーん、あれから俺も勧誘係りに目ばつけられた。毎日来てせからしかけん、海上航空自衛隊に入隊した。ばってん1日で辞めて帰ってきた」
「あははは、そげんか!」
「そうか、まこちゃんもかあ、今、自衛隊は誰でも入れるばい。同期でモンチャンかましとるともおったけん、なんで自衛隊にきたとか聞いたら、組で不始末して逃げて来たとげな。追っ手は自衛隊の中にまでは来んけんね。」
二人で涙が出るほど笑いあった。

The following two tabs change content below.
まこっちゃん

まこっちゃん

元自動車会社工員、配管工、自動車洗車場、呉服担ぎ屋、土木作業員

昭和61年、琉球大学キャンパス内で架橋工事中に突然脳内出血に倒れる。
以降左半身不随の後遺症が残り1種2級の身体障碍者となる。

昭和64年(平成元年)リハビリセンターで入所中に知り合って交際していた女性職員と入籍。
福岡県粕屋郡古賀町(現古賀市)へ転居。彼女が働き、家事全般は夫がする暮らしを始める。生活費は折半。いわゆる「主夫」となって今に至る。

まこっちゃん

最新記事 by まこっちゃん (全て見る)

スポンサードリンク