脳卒中片麻痺、酷い内反尖足を治す訓練

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この動画を見た人(堀尾憲市氏)からこんなアドバイスをいただいた。

動かそうとする筋肉だけで無くいくつもの筋肉に脳が信号を送ってしまうために目的の動きが阻害されてしまうために意思どおりの動きにならないのです。殆どの方に多少の差は有りますが起こることです。これを治すことは出来ますが大変忍耐力がいりますが是非やって見てください.思った通り動いている様子をイメージしながら、やり方は決して力を入れないことが重要です少しだけは力を掛けます。いすに座って膝を持ち上げます。左右の膝を交互に持ち上げますが力を入れなければ動くはずが無いと思われるでしょうが初めのうちは健足だけで麻痺足はびくともしませんがそのうち必ず動くようになります。少しの力で動くようにすることが大切です。発症直後からたつ運動や歩く練習をしたことが裏目に出てしまったのです。足を動かす筋肉は片足50以上有ります。それを使いこなせないままに立位の訓練をしたために脳がて(以上が堀尾氏からのアドバイスである)

35年前のリハビリ

足を上げるのに力を入れれば入れるほど内反する。発病当初(昭和60年)から馬車馬のように歩行訓練していた。35年も前のこととて、重い麻痺はPTもお手上げで、自主訓練をしてくれと言って放置されていたので我流でやるか車いすに頼るかの選択を迫られた。苦しいリハビリに耐えかねて、宗教に頼るひともいた。僕も、親父に連れられてタマキさんの家を訪ねた。タマキさんは村では拝みどんと呼ばれていた。三方の上に紫色の布が敷かれ大きな水晶の玉が載っている。

タマキさんは70代の農家のおばさんである。玉に向かってブツブツ言っていたが、突然、水子の霊が見えると言い出した。それから神主のように祝詞をうなりだした。やがて、お払いが終わると親父は3000円を渡した。村の按摩さんから鍼を打ってもらったが、なんの変化もない。

すっかり落ち込んだ僕を見て、村で荒男と恐れられた親父から村の周囲を歩いて来いと怒鳴られた。泣いていてもしかたがないので4寸角の材木1本担いで歩行練習にあけくれた。昔の田舎では福祉用語すら知らない者が多く。親父は車いすの事を一輪車と呼んでは病院で若い看護婦の失笑をかっていた。

堀尾さんの指摘も、なんとなくわかるような気がするので、やってみようと思う。ただ、時間がかかりそう。

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2回目のアドバイス

堀尾憲市 麻痺の訓練では過度な力を入れて動かそうとすることは厳禁です。脳からは全身に向けて六億本近くの神経が出ています。運動野からだけでも億単位の数の神経でしょう。その神経のどれがどの筋肉に繋がりどの神経が皮膚からの情報を伝えてきているかをもう一度脳が特定する作業がリハビリなのです。どこかを動かそうとすると脳はどの神経が目的の筋肉に繋がっているか信号を流して確認します。大きな力で動かそうとすると目的以外の周辺の神経にも信号を流してしまいますこれが後になってとても困ったことになります。爪先をあげる訓練でも力を入れることはしないように椅子に座って両足をそろえて床に置きます、健足の爪先を上げ下げしますそれを麻痺足にもさせるように動かそうとします.始めは麻痺足はびくともしないでしょうですが脳は一度するたびに膨大な神経に信号を流して試します、一度に試すことのできる神経の数はどのくらいかわかりませんがそんなに多くは無いと思います。必ずどこかには目的の筋肉に繋がっているものがあるはずです。私の感覚では5万回から10万回行えば必ず脳は探し当てます。この数を多いと思うか少ないと思うかは人それぞれでしょうが一秒に一回下なら1時間で3600回出来ますからそんなに多い数ではありません。5年から10年以上も痙縮でむるの前で握りしめていた指が指折り数を数えるようになった人がいます。仙台では22年も握りしめていた手の指か物をつまむことができるようになった人もいます。そんな馬鹿なと思えばそれまでです。それなら自分の手も動くようになるかもしれない絶対動かそうと思えば動くようになるでしょう。全国の各地で麻痺の方々にあいますがこの方は改善不可能と思った方はとても少ない数です。その方は自分が何者かリハビリの意味は何なのか理解できないような状態でした治りたいと思えること、そのためには何でもしようと強く思える方、上に書いた例が信じれる方は改善します。改善は謙虚な気持ちと粘り強い意志を持続させるかどうかにかかっています。治すのは自分自身なのです。この文章を信じることができれば電話してみてください。090-3309-2352です。長々とすみませんでした。宮古島のリハビリ教室には各地から短期リハビリ【 1~2か月 】の方がおいでです

 

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まこっちゃん

まこっちゃん

元自動車会社工員、配管工、自動車洗車場、呉服担ぎ屋、土木作業員

昭和61年、琉球大学キャンパス内で架橋工事中に突然脳内出血に倒れる。
以降左半身不随の後遺症が残り1種2級の身体障碍者となる。

昭和64年(平成元年)リハビリセンターで入所中に知り合って交際していた女性職員と入籍。
福岡県粕屋郡古賀町(現古賀市)へ転居。彼女が働き、家事全般は夫がする暮らしを始める。生活費は折半。いわゆる「主夫」となって今に至る。

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