九州の森の石松

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もうあれから何年になるだろうか。ダイハツシャレードに乗っていたころなので確か39歳か40くらいだったと思う。当時福岡競艇に毎日のように通っていた。競艇場の第一マーク付近に車いすのスペースがあり、テレビも置いてある。脊損で車いすの男性もいたので会話を重ねた。自然と友達も増えた。当時はまだ3連単はない。2連単で勝負していた。ある時、大勝をして気分がよかった。

角刈りの50年配の中肉中背で、負けが込んで、スッテンテンになりしょげていた。かわいそうになり3000円を握らせると小躍りして舟券を買いに行った。それが当たったと喜んでいた。そのことがあってから、僕の姿を見ると着いて離れないようになった。僕が歩くと先導して群衆をかきわけた。で。ぼくが勝つと小遣いをあげたので、いよいよ男は離れない。

そのうちに男は身の上話を始めた。元は暴力団だったそうだ。それは形相でわかってはいた。門司だか下関だかの組織にいて、若いころは九州の森の石松だと言われていたという。ほんとかうそかしらないが、ダイナマイトを抗争相手の事務所に投げ込んだとも語る。ダイナマイトというのは空中で爆発してもなんの威力もないそうで、アレは固い土の中や家屋の中で爆発させないとダメだとか。ホルモン屋で一杯飲みながら武勇伝をさんざん聞かされた。

博多駅から次の駅である竹下駅の近くのボロアパートに、彼は住んでいたので時々送迎してやると大層喜んでいた。女房や家族はいるのかはわからない。ただ、全盲の老いた母親がいて、金に困ると無心にいくというので、

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それは止めときない

と僕がいくらか小遣いを渡すと機嫌がなおる。二人して福岡ボートを目指すのである。朝一番に買い物して、夕飯の支度をしてから福岡ボートへ通うのである。ボートは僕にとってのデイケアーみたいなものだった。

1ケ月ぐらいすると僕もだんだん負けるようになったのでボートへ行くのを止めた。あの頃のボート仲間は今頃どうしているだろうか。しばらく封印していたボートを昨年のクリスマスから始めて、ここんとこ、やっと落ち着いて、ふっと昔のことが思い出された。あの頃のボート仲間はどうしているだろうか。

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まこっちゃん

まこっちゃん

元自動車会社工員、配管工、自動車洗車場、呉服担ぎ屋、土木作業員

昭和61年、琉球大学キャンパス内で架橋工事中に突然脳内出血に倒れる。
以降左半身不随の後遺症が残り1種2級の身体障碍者となる。

昭和64年(平成元年)リハビリセンターで入所中に知り合って交際していた女性職員と入籍。
福岡県粕屋郡古賀町(現古賀市)へ転居。彼女が働き、家事全般は夫がする暮らしを始める。生活費は折半。いわゆる「主夫」となって今に至る。

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