羽犬塚伝説

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天正一三年冬、
留蔵は田の荒起こし余念がない。
そこへ村娘のサチがやってきて抱いてくれとねだる。
まさか田んぼで野合というわけにもいかず、村のお宮へと移動する。
社の裏には若衆宿があり、そこで契った。
時は戦国真っ盛り、

筑後の国は豊後の大友氏の支配下にあったが、天正六年、日向の耳川で、大友宗麟は島津氏と交戦し、敗北する。この様子を見た肥前の竜造寺隆信は、大友の領土である筑後へ侵攻を始める。
筑後の衆は竜蔵寺に従う。その余勢をもって肥後へも侵略を始める。北肥後は抑えたが南肥後は島津がいて、交戦になるが、竜造寺と島津は和睦する。

やがて、大友宗麟が失地の回復に、筑後へ侵攻を始める。筑後の衆は、竜蔵寺派と大友派に分かれて戦う。大友が勝てば見方する。また、竜造寺が勝てばそっちに味方する。そのころ竜造寺は肥前の島原半島の領主有馬氏をも攻めた。

有馬氏は島津氏に救援を求めた。急を聞いて駆け付けた薩摩の精兵と島原の沖田縄手で交戦するも竜造寺隆信は討ち死にする。竜造寺の家督は弟の政家が継承し、筑後の山下城を攻略にかかる。
留蔵の住む筑後の国、上妻郡東條村は蒲池氏の支配下にある。ちかくに支城の知徳城がある。留蔵の村に雑兵を出せと城代の一条殿からお触れが回る。村では若衆一〇人をクジ引きで決めて従軍するが、全滅する。

留蔵はクジにもれてやれやれと、村祭りと夜這いに精を出す。ある日、魚捕りの筌をつけにいって、病気で倒れた武士を介抱し、隣村まで送り届ける。これが縁で、留蔵は筑前の高橋家に足軽奉公に出る。この時、2匹の犬も連れて行く。留蔵は鉄砲足軽として仕込まれる。
島津氏が九州全域を押さえるような勢いに恐れをなし、大友宗麟は太閤秀吉に救援を繰り返し依頼していた。が秀吉も徳川家康の懐柔に手間取り容易に出馬しない。

島津氏は、秀吉が来る前にと、筑前侵攻を企てる。留蔵が籠る立花城は島津軍に包囲され、支城の岩屋城も宝満山城も落ちる。落城寸前の立花城だが、血気盛んな主君の戸次統虎(べっきむねとら)(立花宗成)が打って出るのに留蔵もついていく。

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いぬねこ屋留蔵

留蔵と同行した突破者の仙吉が、茂みに隠れている島津の武将を見つけ、二匹の犬に背後を襲わせる。羽根が生えて、飛んできたようないぬの出現に、武将が慌てて転んだところを留蔵が山筒で仕留める。これを聞いた主君の立花宗成は大喜びし、褒美を与えて、これからは、「いぬねこ屋留蔵」と名乗れという。
やがて、秀吉の島津征伐が始まると島津は薩摩に逃げ帰る。
筑後の高良山で秀吉は論功行賞のために諸将を謁見する。この場に立花宗成も呼ばれている。秀吉が面白い話はないかというので、留蔵が犬を使って武将を討取った話を披露する。秀吉は面白がり留蔵を謁見し、二00石でわしに仕えよとまで言い出す。

留蔵はいぬとねこを連れて秀吉に同行するが、瀬高の手前で、いぬが死んでしまう。村人らはいぬが死んだ場所に塚を立て、供養を惜しまなかった。いぬねこ屋の活躍が筑前や筑後に面白おかしく伝えられ、筑後市に羽犬塚という地名として現在も残っている。

また、基山の薬売りの一行が、「いぬねこ屋」を名乗り筑後へ置き薬の商いにきていたとも伝わる。

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まこっちゃん

まこっちゃん

元自動車会社工員、配管工、自動車洗車場、呉服担ぎ屋、土木作業員

昭和61年、琉球大学キャンパス内で架橋工事中に突然脳内出血に倒れる。
以降左半身不随の後遺症が残り1種2級の身体障碍者となる。

昭和64年(平成元年)リハビリセンターで入所中に知り合って交際していた女性職員と入籍。
福岡県粕屋郡古賀町(現古賀市)へ転居。彼女が働き、家事全般は夫がする暮らしを始める。生活費は折半。いわゆる「主夫」となって今に至る。

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