脳卒中リハビリ、手も昔は足だった。

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もう治らないと言われても、どこかにかすかに期待する気持があって細々と屋外歩行訓練を毎日続けた。しかし、片道40分、往復6キロの道のりを歩いて花見の海岸へ行く。帰りにスーパーに寄って買い物をするというパターンは、3年でとん挫した。ブン回し歩行も、膝にロックがかかる反張膝も一向に改善がみられないのだ。変化の無いことを続けるほど退屈な事は無い。歩くのは朝、2キロ離れたスーパーへの買い物だけとした。

午後は団地の回りを20分歩く、または図書館まで歩く。こんな風にリハビリを変えたら、わずかずつ体重が増えてゆく。170センチ体重63キロだったものが、64キロになり慌てて食事制限をする。しばらくすると食事制限が続かずに元に戻る。そんな事の繰り返しである。歩く他に運動の術がないのでしかたなく歩いた。歩くのが目的というのは辛い。しかし、体重の増加は気になる。食べる事を減らせれば良いのだが、これが難しい。

膝をわずかに曲げて歩く事を常に意識するのだが続かない。信号待ちしている時も電車待ちでホームにいる時も麻痺足をわずかに曲げて体重をかける事もするのだが、つい忘れ、膝を伸ばしたまま立っている事もしばしば。膝を曲げて麻痺足で地面を蹴ってスタスタ歩く事が夢になった。元気な頃は歩く事などイチイチ考えなくても、自然な行動として無意識で歩いていた。歩くのがこんなにも難しいとはしらなかった。

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ああ分回し

足が突っ張って膝が曲がらないまま、ブン回して歩くのは格好悪いし、とても疲れる。階段の上り下りが歩くためには良い訓練になると本で読んだ。毎日通る駅舎の階段50段を利用しようとやってみるけど、1週間と続かない。膝が曲がらないので、足が上がらないのだ。足を上げられないと階段が登れない。しかたなく1段ずつ足を揃える1足1段でしか上がれない。

健常者が普通に歩く2足1段で上がらない事には訓練にならないのである。ウンウン唸りながら麻痺足を持ち上げ、やっとの思いで登り切ると、もうヘロヘロで、こんなに疲れるならもうダメだと諦めてしまう。しばらくするとまた階段リハビリを始めるが挫折する、の繰り返し。エレベーターを使わずに階段を上下する、と心に誓うのだが、直ぐに諦める、そしてまた始める、挫折する、を何年も繰り返した。

手は廃用手だからあきらめている。拘縮が強くて訓練のしようがない。手の動きは非常に複雑なのだ。ある程度は動くけど、力が入らない程度の軽い麻痺で無いと訓練できないとリハビリの専門家は言う。僕の場合は緊張が強まると手がひきつって上がってくる。手のひらを開く事もできない。

歩く時に腕を振れれば良いのだが、曲がったままなので非常に歩きづらい。人間の歩行というのは手を振った方が歩きやすい。4本の手足が、絶妙なコンビネーションで歩行という動作をおこなっている。手を振るという動作は、人間が、大昔、4足歩行していた時代の名残だという。

最後に

つまり、手も元々は足だったそうである。手を振る事は、前足で地面を蹴る事と同じなのだ。右足が前に出たら右手は後ろへ振る。左足は後方で左手は前に振りだす。このように4本の手足が絶妙にコントロールされ歩行という動作が可能となる。片マヒになって手が振れないで歩いてみると、昔は手も足だったと実感できる。

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まこっちゃん

まこっちゃん

元自動車会社工員、配管工、自動車洗車場、呉服担ぎ屋、土木作業員

昭和61年、琉球大学キャンパス内で架橋工事中に突然脳内出血に倒れる。
以降左半身不随の後遺症が残り1種2級の身体障碍者となる。

昭和64年(平成元年)リハビリセンターで入所中に知り合って交際していた女性職員と入籍。
福岡県粕屋郡古賀町(現古賀市)へ転居。彼女が働き、家事全般は夫がする暮らしを始める。生活費は折半。いわゆる「主夫」となって今に至る。

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