障害者の戦国武将・立花道雪

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今から400年前の戦国時代、障害者の戦国武将がいたとされている。筑前立花山(糟屋郡)に居を構えていたという。立花山を毎日見て暮らす障害者の身になれば、400年も前に、片足不自由という軽度の障害とはいえ、連日合戦に明け暮れた時代をどうやって暮らしていたのか気になってしかたがない。

生誕 永正10年3月17日(1513年4月22日)
死没 天正13年9月11日(1585年11月2日)
改名 八幡丸、孫次郎(幼名)、戸次親守→親廉→鑑連→道雪

元亀元年(1570年)、再び龍造寺隆信討伐のため今山合戦にも従軍し、4月23日、佐賀城を包囲する間に巨勢・若宮の戦いで龍造寺隆信、鍋島直茂と交戦した。この戦で記録上、初めて道雪は輿に乗って戦っている。

『大友興廃記』によると、道雪は若い頃(35歳)に半身不随になったとされる。時期に関してはおよそ天文17年(1548年)6月5日、道雪が故郷の藤北で炎天下の日、大木の下で涼んで昼寝をしていたが、その時に急な夕立で雷が落ちかかった。枕元に立てかけていた千鳥の太刀を抜き合わせ、雷を斬って涼んでいたところを飛び退いた。これより以降、道雪の左足は不具になったが、勇力に勝っていたので、常の者・達者な人より優れていた。千鳥の太刀には、雷に当たった印があったため、これより雷切と号するようになった、とあるこの逸話から「雷神」と呼ばれ畏怖されていたともされる]

しかし、一級史料の『戸次道雪譲状』によると、永禄5年(1562年)10月13日の対毛利軍の柳浦の戦いに、毛利方三人の大将(冷泉元豊、赤川元徳(赤川助右衛門)、桂元親(桂兵部大夫))を自ら討ち取った、『戸次軍談』や『九州諸将軍記』などの史料によると、永禄10年(1567年)8月14日に秋月氏との甘水・長谷山合戦(瓜生野の戦いとも)と休松の戦いでは「自ら太刀を振るい、よき武者7人を斬り倒し、騎馬で敵陣に乗り込んで戦って、敵から「鬼道雪」と呼ばれる。」という記録もあり、『浅川聞書』によると永禄11年(1568年)7月4日、立花鑑載討伐で立花山崖下の戦いにも自分で槍を取って家臣と共に奮戦した、『筑前国続風土記』にも永禄12年(1569年)5月18日の多々良浜の戦いに自分で馬を乗出し敵の中へ縦横に突て廻りける、この年代の資料にも輿に乗っていたという記述は無く、「若い頃に落雷によって下半身不随になった」というのが創作なのか、文献に誇張や創作があるのかなど真偽はわかっていない。

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輿に乗って戦場へ

こうして障害者となった道雪であるが、晚年の際、家臣に手輿を担がせて自らは輿に座り、2尺7寸(約82センチ)ばかりの刀(雷切とは別の刀・備前清光という刀であった)と鉄砲1挺、それに腕貫をつけた長さ3尺(約1メートル)の手棒を常に側に置いた。手輿の周りには長い刀を持った100人ばかりの定衆と名付けた若者が、徒歩で固めていた。戦いが始まると、その若者に輿を担がせ、敵が間近になると手棒で手輿の縁を叩いて自ら「えいとう、えいとう」と大声で音頭をとり、敵陣に突っ込ませた。元亀元年(1570年)今山合戦に従軍し、佐賀城を包囲する4月23日に局地戦の巨勢・若宮の戦いで龍造寺隆信、鍋島直茂と交戦した際、戦いで初めて輿に乗った記述がある。また、戸次、立花家相関の史料や『筑前国続風土記』によると、天正7年(1579年)8月14日に、筑前大友方木付鑑実の柑子岳城を兵糧救援の帰路の際、原田氏との第三次生松原の戦いには、道雪は正式的に輿に乗って、督戦した。この時はおよそ66歳の老齢であった。そして天正12年(1584年)8月18日に筑後遠征の際、輿に乗ったまま行軍していた記述がある。(出典ウイキペディア)

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まこっちゃん

まこっちゃん

元自動車会社工員、配管工、自動車洗車場、呉服担ぎ屋、土木作業員

昭和61年、琉球大学キャンパス内で架橋工事中に突然脳内出血に倒れる。
以降左半身不随の後遺症が残り1種2級の身体障碍者となる。

昭和64年(平成元年)リハビリセンターで入所中に知り合って交際していた女性職員と入籍。
福岡県粕屋郡古賀町(現古賀市)へ転居。彼女が働き、家事全般は夫がする暮らしを始める。生活費は折半。いわゆる「主夫」となって今に至る。

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