あの人は今、

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昨日サンリブ前の信号で松永さんと会った。ヘルパーの肩に手を置き歩いている。

「松永さん、山下です。わかりますか」

彼は笑顔で、

「わかるよ」

と答える。古賀身障協会の会員だ。最近、おしゃべり学校に行ってないので久しぶりだった。僕は食材の店ファディーへ。彼はサンリブへと別れた。松永さんはこの近くに一人暮らしをしている。全盲なのでヘルパーさんが頼りの暮らしだ。眼が見えないけど、NHKの受信料は取りに来る。これは市の福祉課に間に入ってもらって払わなくてもよいようになった。

27年ぐらい前になるが、

目が見えないというのは辛いものがある。サンコスモという福祉センターにいると、やけに僕を睨みつける中年の男がいた。どうしたのか事情を聞くと、緑内障で視力が衰え失明寸前の状態であった。職も失い妻は子供を連れて出て行ったそうだ。アパートで独り暮らしをしているが、寂しいので、福祉センターに来て、玄関の待合室で一日過ごしていく。障害者用のタクシー券があるので、それを利用するのだが、もう残りも少ないから、いつまでここにこれるかわからないとため息をつく。

色々話していると、アンタの事はしっているというので驚いた。彼は元気な頃は古賀市内の衛生車の乗務員をしていたという。結婚したころ、僕は花鶴団地から花見の海岸まで、往復するのを日課としていた。往復1万歩になる。その帰りにサンリブで買い物をして帰るのである。それでその様子を眺めていたというのだ。足をぶん回して気合で歩いていたころ、そういえば路地裏で衛星車とはよく出くわしていた。

「若いのに、あんな体になって可哀そうに、とアンタに同情していたら自分が失明するなんて、思ってもいなかった」

あるとき、彼がヤマザキのロールケーキが食いたいというので、僕はサンリブで買ってきたことがある。

彼はまだ、目がぼんやりとしているころパチンコ屋に行き、転倒したそうだ。その際、財布と免許証を落とした。親切な人が財布を拾ってくれたそうだが、後で見ると財布の中に入れておいたお札はなかったという。近くの商店で買い物をすると釣銭が少ないことも時々あるという。

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最後に

その後彼は視覚障碍者のリハビリ施設に行ったと、市の職員から聞いた。他の視覚障碍者に聞いてもそんな人は知らないという。同じ団地には広島出身の視覚障碍者の男性がいて妻に逃げられた。その後鍼灸師の資格を取り古賀に流れてきた。団地で鍼灸院を始めたので何度か行ったけど、下手くそなので利用するを止めた。昔は団地の周囲をヘルパーさんと歩いていたが、そのひとも最近トント見かけない。二人ともどこでどうしているのだろうか?

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まこっちゃん

まこっちゃん

元自動車会社工員、配管工、自動車洗車場、呉服担ぎ屋、土木作業員

昭和61年、琉球大学キャンパス内で架橋工事中に突然脳内出血に倒れる。
以降左半身不随の後遺症が残り1種2級の身体障碍者となる。

昭和64年(平成元年)リハビリセンターで入所中に知り合って交際していた女性職員と入籍。
福岡県粕屋郡古賀町(現古賀市)へ転居。彼女が働き、家事全般は夫がする暮らしを始める。生活費は折半。いわゆる「主夫」となって今に至る。

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