片麻痺養鶏

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片手で建てた鶏舎

リハビリセンターには1年6ケ月の間入所していた。昭和62年3月末日を持って卒業を迎えた。実家に戻ると、昔住んでいた破れ家に一人住むことにした。仕事にも就けないので、空き地で鶏を飼うことにしたと家族の前で宣言すると、真っ先に、父親の繁吉が反対した。

「鶏は臭かけん、いかん」

すると、弟の繁雄は、

「父ちゃん、そげん言わさんな。兄ちゃんもあげんいいよるし。何もせんでブラブラしとるとはいかん。リハビリとおもうて。鶏は数を少なく飼うとよか」

繁雄は真面目な性格である。結婚もして別所帯を持っている。子供も生まれてしっかりした父親になっていたので繁吉も繁雄の言うことには耳を貸すようになっていた。
とここで母親のフサが吃驚することを言い出した。

「母ちゃんなガンたい。この前の町の検診で言われた。子宮ガンげな」

僕は腰が抜けるほどおどろいた。絶対的な自分の味方である母がそんな重病にかかっていたなんて、自分が脳出血になったとき以上の驚きであった。

「兄ちゃん、ほんなこつばい。4月18日、久留米医大で手術ばするごとなっとる」

繁雄がそう言った。

「心配するこつあいいらんけん。お医者さんもようなるち。言うとらっしゃるけん」

父の力強い言葉で少し安心した。それから繁吉は鶏を飼うことについて何も言わなくなった。
鶏舎の設計図は何も無い。おうまんでよい。実家のネギダレ(軒下)に置いてある廃材を集めて鶏舎作りにかかった。猫の額ほどの空き地に基礎にするコンクリートブロックを四隅に埋める。ブロックの穴にちょうど良い丸太を差し込んで4本の柱を立てた。これに梁で4本の柱をつないで、トタンを被せて周囲を金網で囲い、出入り口と給仕口を作れば良いのだが、これが想像を絶する作業になった。

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オンボロ鶏舎

装具をはいてブロックを運ぶだけでも大変な労力を必要とした。片手でブロックを持ち上げるのは、土工だからお手の物だ。しかし、ブロックを片手に下げて歩き始めると麻痺足が内反してしまう。健側の右足に体重を乗せ左の麻痺足は子供自転車の補助輪のような感じで慎重に歩を進めた。麻痺足を上げると足の裏が内返りをするが、着地すると緩むのであるからなんとも不思議だ。

梁と柱を釘で止めることがどうしてもできない。柱と柱に梁を乗せて釘打ちすることが、一人だと難しいのだ。これはたとえ、両手が使えたとしても不可能なことなので、一方を母に押さえてもらって固定した。金網張り、戸口の建てつけ、鶏がエサを食べることの給仕口など、一人ではどうしても出来ない所の造作はまり子が仕事が休みの日に手伝いにきた。当初ひよこを入れていく育すう箱も作らねばならなかった。そうこうするうちに母が入院していった。

5月に入ると鶏小屋も完成し、申請していた障害年金の受給も決まった。初回金として76万円の振込みがあったので72万円をはたいて村内の石田自動車で軽トラックを購入した。車がくると、ちかくの孵卵場でヒヨコ20羽を入手し、さらに50羽を追加し育て始めた。
ひよこが小さい間は目が離せない。まり子とのデートもそっちのけで飼育に夢中であった。やがて梅雨入りするとヒヨコもハトぐらいの大きさに育った。デートの場所は昔すんでいた、今は廃屋になっている汚い部屋である。ポータブルトイレを持ち込んで、家族とは離れて暮らしていた。近くに九州自動車道路のサービスエリアがあるのでここへ裏側から入ってコーヒーなど飲んだ。母は元気な頃、高速道のレストランで皿洗いをしていた。
梅雨がなかなか明けない。1ケ月雨が降り続いてゲンナリした。9月に入ってようやく日差しが戻ってきた。ヒヨコも大きくなったのでまり子とのデートにもでかけられるようになった。
軽トラの助手席に彼女を乗せ、熊本の阿蘇方面へドライブにでかけた。しかし、気がかりなことがひとつある。鶏が卵を産む場所をどうするかだ。何もなければ地面に産む。それではマズイ。小屋の中に箱を置いておけばその中で生むのは間違いない。鶏は暗くて狭い場所があれば必ずそこで産む習性がある。
小屋の中へ毎回入って卵を取りにいくのも面倒だ。外から卵を取れるような工夫がいる。大急ぎでデートを切り上げ、ホームセンターへ行って産卵箱を作るための資材を購入した。それから1週間かかりで巣箱を完成させた。11月下旬になると産卵を始めたので毎日が楽しくなった。朝の11時頃になるとコッコッーと泣き声がするので鶏舎に行ってみる巣箱の中で鶏がうずくまっている。鶏をそっとどけると、そこには生みたての温かい卵があった。母の手術も無事すんで家に帰ってきているので卵は母に一番に食べてもらった。

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まこっちゃん

まこっちゃん

元自動車会社工員、配管工、自動車洗車場、呉服担ぎ屋、土木作業員

昭和61年、琉球大学キャンパス内で架橋工事中に突然脳内出血に倒れる。
以降左半身不随の後遺症が残り1種2級の身体障碍者となる。

昭和64年(平成元年)リハビリセンターで入所中に知り合って交際していた女性職員と入籍。
福岡県粕屋郡古賀町(現古賀市)へ転居。彼女が働き、家事全般は夫がする暮らしを始める。生活費は折半。いわゆる「主夫」となって今に至る。

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