脳内出血記1

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運命の日、

1985年1月16日のことである。沖縄の架橋工事の現場だった。型枠大工たちと車座になって昼の弁当を使っていると、突然目の前が暗くなり、気分が悪くなったので横になった。異常を察した仲間が抱き起こしてくれたが、自分の足で立つことが出来なかった。驚いた仲間たちは、工事用の箱バンに乗せ、近くの診療所へと運んでくれた。
居合わせた若い医師は眼をペンライトで覗き込むと

「1から10までを数えてみなさい」

と言った。意識はあったので普通に数えることが出来た。

「ここでは何も出来ないので専門の病院へ行ってください」

と言われ、救急車で転送された。浦添市のM病院である。直ぐにCTが撮られ、脳内出血を起こして体の左半分が麻痺していることがわかった。

導尿

ベッドに寝かされると若い看護婦がやって来て、ナッパ服を脱がせ、ズボンをハサミで切ってしまった。股間から亀頭をつかみ出すと、理科の実験でもするかのような顔で、尿口から細いビニールの管をアッという間に挿し込んだ。これは導尿といって、排尿障害に対する処置である。尿は管からビニールの袋へと流れる仕掛けだ。脳神経外科病棟の大部屋に寝かされ、二人の付添婦さんが交代で、面倒を見てくれることになった。

脳内出血だと医者から説明を受けた。初めて聞く病名である。自分が置かれている深刻な状況が良く理解できないでいた。左の足が麻痺して、付いているのかすらわからない。近代医療の進歩はすさまじいと聞いている。半年も入院していれば治るだろう。そう深刻には考えずにいた。退院したら、失業保険でも貰いに行くか。とノンビリしたことを思っていた。

8日目になるとリハビリが始まった

付き添いさんがが車椅子を押して訓練室まで連れて行ってくれた。白い服の男がいた。初め、鍼打ちの先生だと思っていたが、PTというリハビリの先生だと言われて吃驚した。リハビリという言葉は知っていたが先生を見るのは初めてだった。リハビリはたいそう苦しいものだと、いつかテレビで見たことがある。色々と体の状態を調べたり問診があって30分ほどで終了した。
病室に戻る途中で尿意を催したのでトイレに入った。導尿の管も取れている。久しぶりに放尿の気分を味わいたかった。しかし、まだ立てないので座って小用も足さねばならず、抱きかかえられながら小便を垂れる我が身が情けなかった。

福岡へ転院

転院先は自宅から1キロほど離れた大場脳神経外科病院である。ここでは脳の中にできた血腫を取り除かなければ手足は動かないだろうと言われた。頭の中を手術するって、いったいどういう風にするのかと思い、シゲは医者に尋ねた。

「まずコンピュータで正確に出血の部位を割り出し、ドリルで頭蓋骨に穴を空け、細い管を差し込んで血腫を吸い出す」

というのである。これで血の塊に圧迫されていた神経が開放され、手足が動き出すかもしれないと説明を受けた。では、元通りの体になるかというと、それはなんとも言えないと院長は腕を組む。

出血は視床下部

出血の部位は視床下部といって脳のかなり深部だと沖縄の病院では説明を受けた。だから、手術は出来ないんだと言うのがM院長の見解であった。大場病院の院長は、久留米大学医学部の講師もしているとかで、筑後地方では手錬れの、脳外科医として知られていた。だから、手術を受けたらどうかと親父がが言った。母や弟妹の意見も同じだった。

頭の中に管を差し込むという点がとても気がかりである。脳の深部に管を差し込むのであれば、その途中で正常な脳細胞にも触れることになるかもしれない。医師の手元が狂って正常な脳細胞が傷付くことだってありうる。手術に失敗して寝たきり状態になる可能性だってあるかも知れない。夜中にベッドの上でそういうことを考えていると、自然にまぶたの裏から熱いものがにじみ出、次から次へとあふれてくるのをこらえきれなかった。

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手術への迷い

麻痺は痙性が非常に強い。足は棒のように伸びたまま、硬直して全く動かない。手もL字型に曲がり指はウンともスンとも言わず、握りこぶしの状態だ。左半身には感覚が全くない。手足が付いているという実感すらしない。このままではたぶん満足に歩けるようにはならんだろうと医者は言う。理学療法士の意見も医者と同様であった。若いので寝たきりになることはないだろうが、重い装具を付けて、体をひねるように歩く異常な歩行になる、というのである。ひょっとしたら車椅子になる可能性だってあると告げられ肝が萎えた。

 

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まこっちゃん

まこっちゃん

元自動車会社工員、配管工、自動車洗車場、呉服担ぎ屋、土木作業員

昭和61年、琉球大学キャンパス内で架橋工事中に突然脳内出血に倒れる。
以降左半身不随の後遺症が残り1種2級の身体障碍者となる。

昭和64年(平成元年)リハビリセンターで入所中に知り合って交際していた女性職員と入籍。
福岡県粕屋郡古賀町(現古賀市)へ転居。彼女が働き、家事全般は夫がする暮らしを始める。生活費は折半。いわゆる「主夫」となって今に至る。

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