筑後平野、(放浪編)西瓜売り、人夫出し、季節労働者)

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西瓜売り

母に無心した250円を握りしめ、中学の同級生だったペコちゃんが経営する喫茶店サンラビに向かって農道をトボトボ歩いた。20分ほどで着いたのでいつものようにブレンド珈琲を注文した。店内にはペコちゃんが競艇仲間と談笑していた。

僕の顔を見るとみんなソッポを向いてしまった。僕が借金で身動きがとれなくなっているのを知ってからギャンブル仲間は冷たくなっていった。特にリーダー各である柴田の豹変ぶりはあからさまで辛かった。ペコちゃんも渋々珈琲を炒れてきた。マガジンラックにあった西日本スポーツを手に取って広げると、

「日当1万円可・ちり紙交換員募集」

と広告が載っていた。電話をかけて面接に行った。免許証を見せるとノートに住所と電話番号を書けと言われ即採用になった。ちょうど夏場だったので、スイカの販売だと言われて戸惑った。

夏は西瓜で、他の季節がちり紙交換だと聞かされた。西瓜は利益が大きいという。一日だけ先輩の軽トラに乗せられて仕事を教えてもらう。次の日から一人で西瓜を売って回った。
「ご町内の皆様、こちらは西瓜の販売カーでございます。甘くて美味しい鳥取のスイカはいかがでしょうか。西瓜、西瓜、西瓜の販売カーでございます」

テープレコーダーに吹き込んだ音声を軽トラに付けたスピーカーで流して回るのである。ど素人でも1日5000千円~8000円ぐらいになった。しかし、お盆を過ぎると西瓜のシーズンは終わりだ。9月上旬までちり紙交換をしたが要領がわからず稼げない。小銭をかき集めて唐津競艇に行ったがスッテンテンになった。唐津から博多駅まで無料バスが出ているのでこれに乗った。博多駅で降りた時、ポケットには80円しかなかった。

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人夫出し (29歳)

「毎日現金5千円日払い・作業員急募・新栄工業」の文字が飛び込んだ。電話をすると直ぐ迎えに来るからそこを動くなと言われた。15分ほどすると目の前に緑色の箱バンが止まった。色の黒い一見して土木作業員とわかる男が運転席から顔を出して声をかけてきた。
「電話の人な?」

「はい…」

後部座席のドアーが開いてもう一人の30歳ぐらいの男がこういった。

「乗らんね」

混雑する博多駅前から裏へ回って10分ほど車が走って3階建ての小汚いビルの駐車場で止まった。男たちが車から降りて2階へ向かってさっさと歩きだしたので続いた。

入口にカウンターがあって40年配の角刈りの男が座っていた。

「お帰り、お疲れさん」

体をジロジロ見ながら、

「日当は5千円。飯代と寮費ば引いて仕事が終わればここで2000円払うけん。この条件でよかならそこの帳面に住所と名前ば書かんね」

そばに汚い帳面があったので住所と氏名を書き込んだ。側から角刈りが奥に向かってアゴをしゃくった。

「食道に行って飯ば食わんね。ベッドはどこか空いたとこを使うとよか。作業着と長靴はその辺にあるとば使いない」

カウンターの向こうが食道になっている。コンパネで作ったテーブルと工事現場で使う道板で作った長椅子が2セット置いてある。数名の労務者が焼酎を飲んだり飯を食ったりしていた。テーブルの上には大きな炊飯器とみそ汁の入った大鍋と茶碗の入った籠が置かれている。そばには丼があってタクアンが盛られている。
空腹だったので飯を大盛りにして味噌汁とタクアンで食っていると、一人の男がこう言った。

「兄ちゃん、3階が寝るとこやけんね。一番奥の下のベッドが空いとるけん」

3階に上がると段々ベッドがズラリと並んでいる。この日は汗臭いベッドに倒れこんで泥亀のように眠った。

明るさを感じて目を開けると周囲のベッドからむさ苦しい男たちがゴソゴソと身仕度を始めた。起きてキョロキョロしていると向かいのベッドの男が、

「あそこにある作業着と長靴ば使わんね」

と隅の方に置いてある段ボール箱を指差した。

箱の中にはヨレヨレの汗臭いナッパ服がいくつも入っているので、適当な物を選んで身に付けた。長靴も作業着も誰が使ったのかもわからない。臭かったが、そんな事を気にしている余裕は無い。皆と一緒に食道に降りて丼飯に卵をかけて流し込んだ。時計が6時50分を指した頃、モジャモジャ頭にヘルメットをかぶって地下足袋を履いた男がやってきて名前を呼び始めた。

「山下真、4号車、渡辺班」

皆がゾロゾロ階下に降り始めたので一緒に付いていった。4号車と書かれた泥だらけのハイエースに乗った。車は渋滞する天神を抜けると福岡の西区方面を目指した。海岸沿いを小一時間走った。造成地が見えてきてその入り口で車が止まった。プレハブ小屋から一人の男が出てきて皆を集めてこう言った。

「今日は排水路の土管の設置です。みなさん、事故のないようにお願いします」

訓示が済むと皆がゆるりとした足取りで奥の方へ移動した。工事現場に着くと道具箱が置いてある。それぞれ左官コテやスコップなどを取り出して作業にかかった。モタモタしていると、訓示の男がやってきた。

「そこの人、モルタルば錬るけん、ネコで砂ば運んでくれんね」

「えー、ネコちゃなんですか」

「ほらほら、そこにあろうが、一輪車たい。早く砂ば運ばんね」
これが僕の土木作業員デビューとなった。

故郷へ(29歳)

夕方5時まで働くと仕事は終わりだ。7~8名の仲間と一緒に箱バンに乗って元来た道を作業員宿舎へと帰っていく。だいたい6時前後に着くから事務所へ行って1800円の日当をもらう。近くの銭湯に行ってから食道へ行く者もいれば、そのまま食道へ直行して飯を書き込む人。それぞれである。

それからしばらく日雇い労務者の群れに交じっていたが、一日働いても手元に残るのは1000円程度。わずかなこの金も2~3日分貯めて日曜日になると福岡競艇に行きスッテンテンになった。

そんな暮らしを2ケ月続けていたが、先に見込みがないので夜、風呂に行くふりをして博多駅へ逃げた。辞める時はみんな、黙って出て行った。それがこの世界の暗黙のルールでもあった。博多駅から鹿児島本線下り荒木行きに乗って終点で降りた。荒木駅から実家のある広川町まで夜道を歩いた。

1時間半歩いて実家にたどりついた。母屋へは行かずにアジトに向かった。汚い部屋だが電気を点けて横になると安心した。博多駅でメロンパンを食った切りなので腹が減っていた。しかし、母屋へ行って飯を食うのはためらわれた。親父がいたらと思うと気が萎える。30分ほど横になってぼんやりしてるとガタガタと音がして破れ障子が開いた。

「ほら、これば食べんね」

母だった。ご飯と大根の煮しめがのったお盆を抱えて立っていた。息子の部屋に電気が点いているのを見て全てを察していた。3日ほどアジトでゴロゴロしていたが、どうにもやれきれなくなって、また博多駅裏の人夫出しに転がり込んだ。

しかし、ここにも馴染めずに給料も貰わずに2日で逃げた。そしてまたアジトに戻った。母に珈琲代をせびってサンラビに行った。

季節は流れ昭和54年も師走に入っていた。珈琲を飲んでいると以前勤めていた呉服屋でアルバイトしていた山口君と偶然出会った。

「あ、山下さん、久しぶりですね。今何していますか」

「おお、山口君、俺は無職でブラブラしとるよ、アンタ、まだ呉服屋行ってるとね」

「いいえ、もう辞めました。正月はテキ屋でバイトするつもりです。あ、そうだ、山下さんもよかったら一緒にバイトしませんか。祐徳稲荷の参道でヤキソバとか焼きイカを売るだけですよ。日当は8千円。その変わり31日の晩から元旦の朝まで眠られんです。この日だけバイトを探してくれと頼まれています」

「うんうん、頼むばい」

渡りに船だった。たった1日だが正月の飯にありつけて8000円とは願っても無い事である。こうして正月に8000円を手に入れた。アジトに戻って喫茶サンラビに行ってスポーツ新聞を見ているとまた、一行広告が目に着いた。

「販売員募集・月収25万可・日払い・出張有、要普免・30歳迄」

どんな仕事かわからないが、スーツを着て面接に行く事にした。面接会場は博多駅前の近代的なホテルの一室で行われた。簡単な面接だけで即採用が決まった。そして岡山へ行けと命じられた。岡山駅近くの旅館の名前と電話番号を書いた紙を渡された。旅費は個人負担だという。

博多駅から岡山へ行って指定の旅館に着いた。担当者に事情を話すと旅館の大広間に連れていかれた。そこには10人ぐらいの若者たちがいて、指導者らしい人物に

「誰だれ何本」

と次々に売上の報告をしていた。報告が済むと指導者が明日も頑張ろうと締めくくって夕食が運ばれてきた。一緒に食べるように促された。飯代1000円を払うように言われた。それから指導者に別室に呼ばれた。現金は預かると言われ、なけなしの1000円は預かると言って取られてしまった。仕事は早朝から地方の民家を回って湯飲みのセット物を売って回る事だった。

湯飲みが木箱に5個入って1万5千円が売値だという。それ以下では売れないが2万円で売るのは構わない。セールスする時は関東便を使うように指示された。次の日先輩に付いて回って仕事の内容がわかった。

バッタ商品を仕入れて巧みな話術で無知な主婦に押し売りするのである。ほとんど詐欺と言って良い。1本売れば販売員に1万円が支払われるのだという。これはヤバイ会社だとわかったので帰らせてくれと申し出た。1000円だけ返してもらって赤穂駅へ向かう。朝飯食ってとりあえず岡山までの普通切符を買うと80円残った。昼に岡山駅のホームに着いた。

さて、これからどうやって故郷へ帰ろうかと思案するが何も思いつかない。腹が減ったので駅のホームの売店でアンパンを1個食ったら無一文になった。椅子に座ってぼんやりとしていると、下関行きの快速電車がホームに滑り込んできたので思わず飛び乗った。検札が来ると車両を移動して下関に着いた。今度は熊本行きの普通列車に乗った。どこで降りようかと色々考えていると、故郷から4キロぐらい離れた所に西牟田という無人駅があった事を思い出した。

西牟田に着いてみると案の定、無人駅だったのでホッとした。柵をまたいで外に出て実家を目指して夜道を歩いた。空腹と疲労でヘロヘロになりながらもなんとかアジトへたどり着いた。

昭和54年・季節労働者(29歳)

廃屋のアジトで目覚めると空腹を覚えた。母屋へ行って食卓のある板の間へ行くと親父が座ってお茶を飲んでいた。母は朝食のしたくをしている。誰も何も言わない。黙って親父の向かいに座った。親父は知らん顔をして新聞を見ている。母が味噌汁とご飯をよそおって親父の前に置いた。次に二人分の味噌汁とご飯を並べた。

「ほら、アンタも食べんね」

ガツガツとご飯をかき込むと味噌汁をすすった。旨い。実に旨い味噌汁だと思ったが口には出さなかった。ロングホープを吸いながら親父が読んでいた新聞を読んでいると
NECの大津工場が季節労働者を募集している広告が目に着いた。これだと思った。もうセールスや土工はコリゴリした。

工員の方が堅実だと思った。呉服屋のセールスなど大して必要でもない物をあの手この手を労して売り込まねばならず、よほどの才能が無いと成績を上げられない。今時着物など滅多に着ないし。民族衣装として残るしかあるまい。

その点、NECと言えばコンピュータ関連のメーカーとして一流であり、LSIとかいう部品も作っていて将来有望だといつかテレビで言っていた気がする。母に無理を言って久留米までのバス賃をもらって、履歴書を持って職安を訪ねた。運よく採用がその日に決まって、母に報告すると再び大津までの旅費を用立ててもらった

季節労働者

昭和55年1月16日、NEC大津工場の季節労働者として働く事になった。勤務は三交代である。早出の時は朝の5時ごろ寮を出なければならない。比叡おろしが琵琶湖から吹き付けるので駅やバス停にいると寒くてたまらない。京都の底冷えとか言うけど、アレがそうなのだろうと思った。

勤務は成形という部署である。LSIの基板に樹脂を流し込んでチップに成形する。その金型を操作するのである。これは誰でもできる。NECは契約満了の6月を待たずに5月中旬に辞めて故郷へ戻った。金融公庫の借金200万円は親父がわずかな土地を処分して清算してくれたという。

季節工で得た金が10万ちかくあったのでホンダの50CCのバイクを買った。夏の事である。この頃、ゲンちゃんがアジトへやってきた。

「マコちゃん、俺と久恵ちゃんは結婚したぜ。お前はどこに行ったかわからんし、久ちゃんは親父と兄貴から責められて家から出してもらえんし。仲人さんにも頭下げに行ってもろうたり。久ちゃんが相談したいとこがあるけんと。電話してきて度々会ってたらこうなった」

思いもよらぬ事を知らされて吃驚した。そして、

「俺たちは、お前の事は全然気にしとらんぞ」

正直ショックだったが、冷静な振りをして自分の気持ちを伝えた。

「ああ、そうね、そんなら、久恵ちゃんに俺も一遍会いたか。気持ちにケリを付けたいけん。どこかで3人で会う事はできんね。そうせんと偶然街で会った時、どんな顔していいかわからんけん」

それから数日後に、久留米市荒木町の新居のアパートをバイクで訪ねた。冷えたビールとコップ肴をお盆に乗せて彼女が現れた。新妻となった久恵は一段と綺麗になっていた。駆け落ちの件には触れずに世間話に終始して酔いを醒ましてからアパートを後にした。

常用人夫 (30歳)

借金もなくなったのでまた当条のアジトで寝泊まりするようになった。借金をケンちゃんに払っても15万円ほどの現金が残った。久留米の自動車販売店でエンジンは動くが車体がボロボロのサニートラックを見つけ5万円で買った。全塗装をしてこのボロ車を蘇らせた。

サニトラを転がして久留米のパチンコ店に行くと、偶然にも博多の人夫出しで一緒だった中村信三と再会した。今は佐賀の現場にいるという。小倉の現場で親切にしてもらった佐多建設の友田という現場監督が佐賀県城原の高速道路の現場にいるので、そこで働いていると言った。久留米の親戚を頼り、関西の在所から家族を呼び寄せアパートを借りて現場まで通っているというのである。

「山下さん、今、何ばしとるね」

「別に何もしよらんです」

「そんならちょうどよか。城原の現場に来んね。食いっ放しで6000円は出すやろ」
ブラブラしていると話すと、今常用の人夫を捜しているので城原の現場で一緒に働かないかというのである。佐賀平野の端にある現場事務所を訪ねて友田と面会し働かせて欲しいと申し出ると、

「ああ、そりゃあよかった。ちょうど人数が欲しかったですけん。昼飯付きの日当6000円でよかなら明日から来てくんしゃい」

僕は30歳になったばかりで、車の運転もできるしガス切断機が使える。シャッター屋にいたときは電気溶接もしていた。高架橋を専門にしている佐多建設の現場では欲しい人材なのだという。

人夫と言えば高齢者が多く車に乗れないし、ガス切断や電気溶接もできない。それにコンクリート打ちなどの重労働は体への負担が大きく無理が利かない。若手の人夫はどこの現場も欲しがっているようだ。こうして今度は佐賀県神埼のの現場で働く事になった。作業着と下着類をサニートラックに積み込んで飯場に引っ越した。布団と飯・風呂は用意してあるからこういう雇用形態を向こう飯向こう糞という。

城原の現場川に掛けるのは長崎自動車道の高架橋である。しかし、ここも半年で工事が終了した。次の現場は鳥栖の牛原というところにあった。長崎道の高架橋工事だ。鳥栖の現場監督は中村という40年配のタクシー運転手上がりの馬面の男である。僕は若いから便利屋としてコキ使われた。ユニック(トラッククレーン)の運転からゴモクゾの片づけから足場の組み立て、支保工の組み立て、コンクリートの打ち込み、左官工事、土木作業全般、あげくのはてにNHK福岡のラジオアンテナ塔解体工事では社員が足りないからと。臨時の現場監督として赴任させられた。

このときのラジオアンテナ塔解体を一ケ月で手際よく終了させ、400万円の黒字を計上した。僕はマイカーを現場へ行くのに使った。工事部長の田中さんが車の使用手当を出すと言っていたが支給されて見ると約束の半額しかなかった。

これに味をしめた田中さんは僕を武雄バイパスの現場に社員として派遣した。自分には高架橋の現場監督は荷が重いから常用人夫に戻してくれと頼んだが、社員が足りないので、どうしても臨時の現場監督で行ってくれと懇願され断りきれなくて頷いた。

武雄ではまだ飯場ができてない。当分は当条のアジトから通うことにした。鳥栖からよりも在所から行った方が近い。と言っても片道1時間半はかかる。この工事は悲惨を極めた。鉄筋屋も人夫も人数が全然足りない。20人役の所を10人でやったり。ひどい時は5人でやったりしていたので、

めまい

元請けからは毎日雷が落ちた。しかし、どこの建設業者も九州自動車道関連の工事を山ほど抱えており、作業員を他に回す余裕などまったくない状態が続いていた。家を朝の5時には出て帰ってくるのは夜の10時過ぎという連日の突貫工事である。ある朝、目眩がして起き上がれない。だがしばらすると起き上がれた。それでもまだフラフラするので半日休みをもらって病院にいった。自宅から2キロ離れた大場脳神経外科である。院長は筑後地方では手練の脳外科医として知られている。この院長の診察を受けたが何の異常も見られなかった。疲れだろうということでまた仕事に戻った

2ケ月ほどすると武雄の現場にも正社員が赴任してきたので、やっと難儀な役から解放された。それでまた鳥栖の現場で常用の人夫に戻れた。

昭和59年・11月、(34歳)

移動式クレーンの免許を取得すると決意し、当条のアジトから久留米の建設機械専門学校に通うことにした。4トントラックに3トン加重のユニッククレーンを操作する機会が多いので、資格を取っておいた方が良いと思った。というよりも無資格でクレーンを操作するのが怖くなった。

学校は当条から近い。ペコちゃん経営の喫茶店「サンラビ」の目の前にある。授業料が12万円必要だったが、これは田中工事部長に訳を話して佐多建設から借りることにした。そう言うことなら費用は全額会社が負担して良いと部長は言ったが、借りを作るのが嫌で断った。毎月2万円ずつ給料から天引きしてもらうことにした。

2週間学校に通って移動式クレーンの免許を取得した。僕は土曜日の午後4時ごろ鳥栖の現場へ顔を出した。ちょうど田中工事部長がいて、
「おい、今から湯布院にいくぞ、俺の車を運転してくれ。これは仕事ぞ。日当も払う」

「えー、なしてですか、自分で運転すればよかじゃなかですか?」

そこへ現場監督の中村さんがやってきた。

「それが部長は免停中じゃけん、山下兄ちゃん、運転ばしてくれや、今、湯布院の現場で緊急事態が起きとる」

なんか急ぎの用があるらしいので断るわけにもいかず、田中工事部長の自家用車クレスタの運転席に座ってハンドルを握った。

湯布院へは2時間近くもかかったろうか。着いた時はもう夜の8時だった。その日は宿舎で飯を食って温泉に入って寝た。あくる日は日曜日である。お目付け役の道路公団の職員は自宅に戻って誰もいなかった。そんな中、元請けの墨出しの間違いが発覚した。橋脚のフーチングという下駄の部分に鉄筋を組んで見ると型枠に収まらないという珍事が出来した。

コンクリートを打ち込んで、脚本体を上に伸ばすため型枠を組んだら型枠から鉄筋がはみ出すので、はみ出た鉄筋を正規の場所に移植するという作業を隠密裏にやった。これはあきらかに違法行為である。僕は気になって帰りの車の中で、

「あげな事ばしてよかとでしょうかね」

「ああ、ほんな事なあ、しかし、元請けがやれと言うんじゃけん、俺ら下請は従うしかなか」

小さな手抜き工事は工事現場のあちこちで行われていたので、世間とはそうしたもんかと思った。

おい、山下兄ちゃん、12月から沖縄の現場に行ってくれんか日当は弾むぞ」

「えー、沖縄、そらまた遠いですね。嫌になっても簡単に帰って来られんけん、ヤッパ止めときます」

「そげん言わんな、行ってくれんか食いっ放しで7000円出すわあ」

…沖縄は興味があるけど。しかし、なあ、この人の言う事はあてにならんもんなあ。金を出すと言って、いざ支払いの段になると約束の金額より安く払う。金には汚い男だという噂を耳にしていた。孫請けの大工や鉄筋屋、人夫も過去に泣かされた者は多いという。が、しかし、断りきれずに首を縦に振った。この頷きが後々僕の人生に大きな影響を与える事になる。

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まこっちゃん

まこっちゃん

元自動車会社工員、配管工、自動車洗車場、呉服担ぎ屋、土木作業員

昭和61年、琉球大学キャンパス内で架橋工事中に突然脳内出血に倒れる。
以降左半身不随の後遺症が残り1種2級の身体障碍者となる。

昭和64年(平成元年)リハビリセンターで入所中に知り合って交際していた女性職員と入籍。
福岡県粕屋郡古賀町(現古賀市)へ転居。彼女が働き、家事全般は夫がする暮らしを始める。生活費は折半。いわゆる「主夫」となって今に至る。

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