脳卒中片麻痺、負けないで

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昭和60年、4月2日、
筑後病院へ。昔の陸軍病院。戦後は結核療養所となり、その後難病者の受け入れ施設へ。筋ジストロフィー専門の病棟を持つ。スモン病、ベーチェット病、関節リューマチ、パーキンソン病、ギランバレー症候群などの患者が入院していた。
難病というのは、治療方法が無いそうだ。脳卒中も難病ではあるが、進行性はないので、ここではまだ軽い方だと、入院してからわかった。30代で、進行性の筋ジストロフィーと診断され、入院してきた男性は夜も眠れないと泣いていた。徐々に筋肉が衰え最後は寝たきりになる事がわかっているのだから慰めようもなかった。

40代男性はベーチェット病を隠して結婚し、子供を設けていたので、発病して病気を初めて知った奥さんは怒って離婚してしまった。パーキンソン病の患者を看護婦さんが、先生と呼ぶので不思議に思っていたら、その人は、筑後病院の元医師だったという。色々な人たちが、様々な難病と問題を抱えて入院していた。

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棒足

僕の麻痺の特徴は強いケイセイがあることだ。足が異様に突っ張り、膝が全然曲がらない。歩こうとして左の麻痺足を振り出すと外を大きく回って前方に出る。足をふりまわして歩くのでブン回し歩行と呼ばれている。麻痺足に体重を掛けると膝がガチッとロックされてしまう。普通、人は膝をわずかに曲げて歩いている。

膝を曲げて体重を支えられないと歩行はできないのである。それでも強引に歩いてしまうと歩くたびに膝がロックされるのでロボットのような歩行になるし、非常に歩きづらい。こういう状態の膝を反張膝という。足首が全く動かずタレているし、歩こうとすれば足の裏がひっくり返ってしまう。
足首がタレているのを尖足と言い、足の裏が引っくり返るのは内反と言う。これを矯正するために短下肢装具という物を作った。安全靴に鉄の支柱が付いているようなものである。この装具を履かないと歩けない。歩くといってもギクシャクしたものでとても満足な歩行とは言えない。

しかし、短下肢装具だと室内では使えない。室内で使えて、外に出る時は靴を履けるプラスチック製の靴べら型装具も作った。ただ、靴べら型装具だと27センチの靴でないと装具の上から履けない。それも上部が開くワンタッチシューズでないといけない。

健足の右足は26センチの靴で良い。27センチを履くとガバガバになる。しかたがないので26センチと27センチの両方を買って、麻痺足には27センチ、健足には26センチの靴を履く。訓練室で受けるリハビリ以外にも、玄関の前をグルグル回って歩行練習をしていた。入院当初は気分がふさぎがちで母や弟が見舞いに来てくれるのが一番嬉しかった。

反対に幼馴染みや古い友人には会いたくなかった。家族が帰ると寂しくて涙が出る事もあったが、友人が帰ると見舞いを受ける義務を果たしたようでほっとした。微熱が出たり多少の下痢で気分の浮き沈みが激しかった。頭がボーとすることもしばしばで発病後間が無いので脳の状態が不安定のようである。

入浴日は週1回と決まっている。この日は両親が入浴介助に来てくれるので嬉しかった。どの患者も家族が入浴の介助に来るのだ。筑後病院にいる時、ちょうど免許証の更新時期だった。近くにある運転免許試験場に行って免許の更新をした。ただし、普通免許はAT車限定。自動二輪は抹消された。

最後に

筑後病院にいるときから32年が経過した。これからは、昔農村の納戸に密かに置かれていた中風を患った老人のようになるかもしれない。家族に下の世話を受けながら、時々リヤカーに乗せられて、村はずれの診療所へ連れていかれる。廃人同様の生活を覚悟しておく必要がある、と砂をかむように覚悟した。心の奥ではそんな風にはぜったくなりたくないと思っていた。まさか今のような暮らしができるなんて。ネットやパソコンをいらえるようになるなんて想像すらできなかった。

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まこっちゃん

まこっちゃん

元自動車会社工員、配管工、自動車洗車場、呉服担ぎ屋、土木作業員

昭和61年、琉球大学キャンパス内で架橋工事中に突然脳内出血に倒れる。
以降左半身不随の後遺症が残り1種2級の身体障碍者となる。

昭和64年(平成元年)リハビリセンターで入所中に知り合って交際していた女性職員と入籍。
福岡県粕屋郡古賀町(現古賀市)へ転居。彼女が働き、家事全般は夫がする暮らしを始める。生活費は折半。いわゆる「主夫」となって今に至る。

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