投稿するようになった経緯

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リハビリセンターの中にもクラブ活動というものがある。新聞部があってミニコミ誌を発行していた。その新聞部の顧問をしているのが、弓削先生である。

新聞部へ

部員が少ないらしく僕にもお座敷がかかった。土木作業など重労働しか経験がないので自信が無かったけど入部した。手書きの原稿をワードプロセッサーというタイプライターの親方のような機械に文字を打ち込んでいく。すると機械がきれいに印刷してしまうのである。字が書けなくても良いという。その機械を障害者が使っていたので仰天した。

 

文豪というワードプロセッサーは80万円もするものらしい。弓削先生に操作方法を習ったが何が何やらサッパリわからない。原稿の集まりが悪いので何か書けと言われたが、どのように書けばいいのかチンプンカンプンなのだ。それでも頼まれると悪い気がしない。エンピツを舐め舐め金クギ流のひらがなの多い文字を便箋に連ねた。

ある日、新聞を読んでいると読者欄というものがあって投稿できると書いてある。思いつくままを書いて投函してみた。数日後に毎朝新聞に掲載されていたので吃驚すると共に嬉しくなった。おまけに図書券まで送付されてきたのである。これから投稿にはまってしまい、雑誌や週刊誌にまで進出を図ったが成績は振るわなかった。リハビリセンターには1年6ケ月入所していた。

週刊誌投稿

リハビリセンターを出ると寮母と結婚して、在宅の障害者となった。午前中は花見の海岸まで、屋外歩行訓練にいき(往復9000歩)途中のスーパーで買い物してくる。料理をするまで暇なので、週刊誌の読者コーナーにせっせとハガキを書いた。平凡パンチという青年週刊誌があって、読者参加型のページが設けられていた。これに運よく掲載されると2000円~5000円が郵便為替で送られてきた。

読者層はどちらかというとブルカラー向けである。ヌードやお下品な話題がメインなので、これなら自分でもいいかもと思った。1回採用されて5000円が送られてきたので小躍りした、せっせとハガキを書くが、その後は採用されない。ハガキを書いていると最後になるとだんだん字が小さくなる。字も汚いから読みづらいから採用されないと思い始めた。

ワープロ専用機

そのころワープロの値段が劇的に安くなった。数十万円もした物が10万円以下で発売された。中でもキャノンから発売されたものが67000円と手ごろだったので購入した。

液晶画面が珍しく、画面の不具合が多かった。

今でこそワープロはパソコンのアプリのひとつだが、昔はワープロ専用機というものがあったのである。当時のパソコンは難しくて、素人の手に負えるようなものではなかった。僕は何が何やらわけがわからないままに、ああでもないこうでもないとワープロをいらっていた。

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雑誌の終わり

やがてバブルがはじけると出版不況が到来したのとインターネットの登場で週刊誌や雑誌が次々に廃刊され投稿先を失った。他にすることもないのでしかたなく公募の懸賞小説に応募しようと頑張ったが、中卒の土工あがりの手に負える世界ではなかった。

 

 

 

 

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まこっちゃん

まこっちゃん

元自動車会社工員、配管工、自動車洗車場、呉服担ぎ屋、土木作業員

昭和61年、琉球大学キャンパス内で架橋工事中に突然脳内出血に倒れる。
以降左半身不随の後遺症が残り1種2級の身体障碍者となる。

昭和64年(平成元年)リハビリセンターで入所中に知り合って交際していた女性職員と入籍。
福岡県粕屋郡古賀町(現古賀市)へ転居。彼女が働き、家事全般は夫がする暮らしを始める。生活費は折半。いわゆる「主夫」となって今に至る。

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