脳卒中片麻痺者、昔配管工とスイカ売りになったわけ

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28歳の頃。呉服屋をやめてブラブラしていると、僕より5つ年上で、親戚の晶一が設備屋を始めた。中古の軽トラに旋盤をを積んで水道や空調の配管工事の下請けを始めた。一人だと大変だから手伝ってくれというので、本家の従妹で兄弟のように育っていたので二つ返事で手伝った。最初はほんの数日のつもりだったが、給料を払うからしばらく手伝えというので2カ月ほど手伝ったが給料を払ってくれないのである。工事の合間に晶一の子供の子守りまでしていたのに。

金がないので僕はちり紙交換屋の門を叩いた。夏場だったので西瓜売りになって日銭を稼いだ。夏はちり紙交換の代わりに鳥取の砂丘西瓜を軽トラで売って回るのだ。そしてスイカが終わればちり紙に切り替える。しかし、ちり紙はうまくいかず、実家の裏の廃屋に潜んで人目をはばかっていた。食事は母屋へ行って父のいない隙に食べるのである。

中学の同窓生だったシューちゃんが久留米でアパートを借りて住んでいる。彼はトラックを買って個人で運送屋を始めたが失敗した。借金を背負ったが長距離トラックに乗って返済した。と小耳にはさんでいた。

困った僕は彼のアパートを訪ね、同情を誘って転がり込んだ。呉服の仕立物をたのんでいた久恵と由紀子という二人をシュウちゃんに紹介し、4人で交際を始めた。大型ダンプの運転手をしているシューちゃんは女っ気がないので大喜びした。久恵の方が器量よしで、これは僕が付き合うことにした。

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駆け落ちに失敗、故郷を逐電

シューちゃんも久恵に気がある様子だったが…。彼女らの仕事部屋でおしゃべりしたり、屋台に飲みに行ったりして遊んだ。やがて僕は久恵と恋に落ちた。久恵には親の決めた婚約者がいた。が僕と長崎に駆け落ちして失敗する。クギ茶(刈結納)まですんでいたので相手の男は激怒していると聞いて村にいずらくなって、故郷を逐電した。

居場所をなくした僕は博多駅裏の人夫出しに転がり込んだ。小倉南区の曽根で高速道路のインターチェンジの工事をしている反場に半年ほど身を置いて借金を返済した。

その間にシューちゃんと久恵は結婚していた。僕が土工の群れに身を投じていた隙に、二人は交際していたのである。後でその話を聞かされたときは、少なからずショックを受けた。が黙って飲み込んだ。

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それからはペコちゃんの経営する喫茶店、サンラビに入り浸るようになった。中学2~3年が同じクラスだった。ペコちゃんは無類の競艇好きである。彼に誘われて行った唐津競艇で100.000円儲かった。ビギナーズラックがきっかけでギャンブルの味を覚えてしまった。(写真はサンラビの常連客と糸島へ海水浴にいったときのスナップ)

朝から喫茶店にたむろし、スポーツ新聞を読みながら福岡ボートの12Rは6号艇がデンデン◎ばい。4号艇が対抗の〇じゃろう。とああでもないこうでもないと講釈をタレるマスターの元へはギャンブル好きが次第に寄ってくるようになった。

それからの僕は次第に金に困るようになっていく。競艇の資金作りに古本を売りに行き、質屋にも通った。サラリーマン金融というのができたと聞いては訪ねてみたが、自営業や無職では貸せないと言われた。自堕落な生活を送っていると金に詰まってきた。(以上が配管工とスイカ売りになっただいたいの流れである)

最後に

当時(1980年代)は、八女地方には喫茶店も少なく、サンラビには近在の若者が昼夜を問わず集まっていた。八女市龍ケ原にアメリカンという喫茶店があり、サンラビ常連の剛しゃんがアメリカンのマスターと麻雀に興じていた。多くの常連客がボートや競馬花札、麻雀に興じ、借金で身動きがとれなくなったものが多くいたが、現在彼らはどんな暮らしをしているのだろうか。一度訪ねて話を聞いてみたい。晶一は60ぐらいに直腸がんを患い数年後になくなった。

 

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まこっちゃん

まこっちゃん

元自動車会社工員、配管工、自動車洗車場、呉服担ぎ屋、土木作業員

昭和61年、琉球大学キャンパス内で架橋工事中に突然脳内出血に倒れる。
以降左半身不随の後遺症が残り1種2級の身体障碍者となる。

昭和64年(平成元年)リハビリセンターで入所中に知り合って交際していた女性職員と入籍。
福岡県粕屋郡古賀町(現古賀市)へ転居。彼女が働き、家事全般は夫がする暮らしを始める。生活費は折半。いわゆる「主夫」となって今に至る。

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