トヨタ自動車の想いで、

スポンサードリンク

職安へ

正月休みが明けても大坪自動車へ行くのが嫌になってズル休みを続けた。しばらく実家でゴロゴロしていたがやがて福島の職業安定所を尋ねた。

「あのう。トヨタ自動車のボッシューはまだあっとりますかの」

「ええ。今度は1月15日に採用試験がありますよ。どげんせらっしゃるですか。受けらっしゃるなら履歴書ば持って15日午前9時にここの2階へ来てください」

「はい、わかりました。ほんなら15日に来ますけん。どうもすんまっしぇん」

帰りに福島のデパートの前でバイクを止め文房具コーナーで履歴書を買った。そして土橋の交差点にあるかぶと饅頭屋で黒餡と白餡入りおわん型の回転饅頭を求めた。関東では今川焼きだという。これは少年サンデーで知った。

試験は算数と国語である。それでも僕は分数ができなかった。通分が理解できないのである。入社試験と言っても形式的なものである。ましてや従兄弟と同じ村の出身者がいるというので採用は決まったも同然。というよりも1時間後には合格と告げられて入社説明会へと進んだ。

昭和43年3月 本社前 17歳

配属されたのは元町工場車体技術部原型課検査。冶具の検査をする。

映っている車種はMS52(クラウンハードトップ・2000cc)

スポンサードリンク

コロナハードトップ1600CC

独身寮に止めてある他人の車を背景に。

工場全体が新型車両の生産準備で目の回るような忙しさの中、季節は紫陽花の候へ移ろう。
シゲはある日、体が異常にだるい事に気付いた。残業で忙しいからその疲れだろうと思って早目に就寝したが疲れは取れない。これはおかしいと思って仕事を休んでトヨタ病院で内科を受診した。医師は問診の後顔を覗き込みながら、

「黄疸が出ています。肝炎みたいですね。詳しく検査して、しばらく入院した方がいいでしょう。とりあえず今日はお薬を出しておきましょう。それと安静にしていてください」

入院するなら故郷に帰って養生しようと思った。岩夫にも職場にも相談するとそれがいいというので飛行機に乗って当条へ帰った。母のフサに事の次第を告げると、急いで久留米第一病院を受診した。主治医の安元医師は、

「屋台とか。ちょっと不潔な場所で食事をしませんでしたか。ウイルス性の肝炎です。GOTが300もあります。今日から入院してください。絶対安静です」

アッという間にベッドに寝かされ直ぐに点滴が始まった。ナースセンターから母に電話をかけてもらい、簡単な着替えを持ってきてもらった。ベッドの枕元には絶対安静の札がかけられた。
朝食が済むと検温が始まりそれから点滴である。最初はゆっくり落としていたが面倒になって早くすることを覚えた。部屋は6人部屋で慢性肝炎の60代40代は輸血をしてからウイルス性の肝炎になったという50代の肝硬変、40代急性肝炎と全て男である。

午後は暇だから色紙と厚紙を利用して鼓を作るのが流行っているらしく部屋の全員がやっているのでシゲも習った。10日もすると症状も落ち着き鼓の腕も上がった。女部屋へ指導に行くようになった。英子という若い女がいたので親しくなった。歳を聞くと19歳だと言う。醜女というほどではないが不器量である。しかし、豊満な肉体をしていて薄いパジャマから伸びた四肢は若芽のようだ。近くに寄ると甘酸っぱい匂いがする。
「俺も19ばい、一緒やねえ」
「高田さんはどこね」
「俺は広川たい」
「アンタはどこね」
「うちは久留米よ」
「広川て言うたら。高校の同級生に山本千香子・山本松子がおったよ。知らんね」
「あ、知とお。知とお」
二人とも広川中学校で評判の美人だったから当然シゲは知っていた。ついでに言うと器量良しだが学業の方は芳しくなかった。美人というのは男が寄ってくるので勉学に勤しむ余裕がないのかも知れない。当然、県立高校や市立高校へは行けない。この地方でツーと呼ばれる私立の女子高へ通っていた。
8月5日は久留米の水天宮の花火大会である。昼下がり、待合室の一角に設けられたコインスナックに英子が一人でコーラを飲んでいた。
「アメリカラムネば飲みよっとね」
「プッ。あははは。うん」
薄いパジャマから下着のラインが見え、胸の谷間も見える。ドキドキした。
「ねえ。今夜屋上で花火ば見ろうか」
「うん、よかよ」
5時の夕食が済むとシゲは入念に歯磨きをした。午後7時には屋上へ上がった。すでに数人の患者が団扇をパタパタやっている。しかし、日はまだ明るく蒸し暑い。若い二人は他の人と離れた場所に並んで下界の様子を眺めた。シゲは思い切って体を近付けた。英子も少し寄った。手と手が触れたのでシゲの方から思い切って握った。グッと握り返してくるので心臓がドキドキした。喉も渇いてきた。

コンピュータ

17歳の時、トヨタの工員になった。車体技術部原型課というセクションで冶具の検査をする。プレスされた鉄板の部材が図面通りにできているか検査する。当時はまだコンピュータも未熟で、ハイトゲージという手動の計測器などで仕事していた。他に計算尺とかマイクロ―メーターとか。実に手間暇かかるのでH・L・Wの3方向を一遍に測定できるというコンピューターが現場に導入された。空調の聞いた特別の部屋にロッカーほどもある四角い箱が数台ならんでいた。(Hは高さ・Lは長さ・Wは幅)

門型という機械で3方向を同時に測定する。そういう触れ込みだった。これを動かすためにはプログラムを作る必要があった。寺原さんというひとが、タイプライターでH・L・Wの3方向を打ち込んでいくのである。そうすると黒いテープに穴があく。これをロッカー状の機会のセンサーが読み取って門型が作動するのである。タイプライターに打ち込む作業がプログラムの作成をしていたのだろう。並の工員にいらえることではなないので、富士通から技術者が出張ってきて付きっ切りで指導していた。このころのソ連ではコンピュータで使う紙の質が悪いのでアメリカより遅れているとか噂されていた。あの頃を思い出すと手のひらサイズのスマホを老若男女がいとも簡単にいらう日常に暮らしていると時代の進化に恐ろしさすら感じる。

The following two tabs change content below.
まこっちゃん

まこっちゃん

元自動車会社工員、配管工、自動車洗車場、呉服担ぎ屋、土木作業員

昭和61年、琉球大学キャンパス内で架橋工事中に突然脳内出血に倒れる。
以降左半身不随の後遺症が残り1種2級の身体障碍者となる。

昭和64年(平成元年)リハビリセンターで入所中に知り合って交際していた女性職員と入籍。
福岡県粕屋郡古賀町(現古賀市)へ転居。彼女が働き、家事全般は夫がする暮らしを始める。生活費は折半。いわゆる「主夫」となって今に至る。

まこっちゃん

最新記事 by まこっちゃん (全て見る)

スポンサードリンク