昔つきあっていた女と障害者になって出くわした事がある。

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発病間もなくの頃、以前付き合っていた女と出くわした。病院の周りを歩いていたら、足を振り回して歩くところを見られた。彼女はその様子で事態の深刻さを一瞬で悟って、顔をそむけるように、逃げるように走り去った。

昭和60年4月国立療養所筑後病院へリハビリ目的で入院。

連日歩行訓練に明け暮れていた。朝起きると病院の玄関の前を20周ほど回るのが日課だった。まだ病院の外へ出たことがなかった。ある日、意を決して病院の外に出た。ヤッタぞという思いである。物々しい短下肢装具を付けて、足をぶんぶん回して歩いていると、昔付き合いっていた女と偶然出くわして、面食らった。彼女は一瞬で事態を悟り逃げるように走っていった。

リハビリ仲間と

写真右の高木さんは総会屋だと言っていた。僕が36歳。彼が42歳。年齢が近かったので、よく一緒に歩行訓練をしていた。彼は心の杖にといってある仏教系に入った。病院を出てからどうなったのか消息はわからない。元気に暮らしていることを祈るしかない。

障害者になると突然宗教心に目覚めるひとがいる。リハビリセンターで同室だった清三郎さんもその一人である。仏教系のにわか信者となった。朝な夕なにお経をあげるが一向に効き目はない。大酒飲みだったらしくワンカップの酒を隠し持っては見つかり、指導員によく叱られていた。ある日曜日外出し、自販機でワンカップを買って飲んだら動けなくなった。通行人からセンターに通報があり騒ぎになったことがある。今から35年も前のことである。あの頃のみんなは今頃どうしているのだろうか。

脳卒中を患うとほぼ半身不随となるか重篤だと寝たきりになることもある。軽症の場合でも健常時の90パーセントぐらいしか回復はしない。見た目は普通と変わらないが、子細に見ると後遺症が垣間見れる。裸足で歩けても微妙に内反していたりする。また、見た目が健常に近いために、怠けていると誤解されることもある。軽度の麻痺でもその疲労感は大きい。軽症には軽症の悩みがある。

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治りたいならセラピストと縁を切れ

宗教にすがったり酒でごまかしたりしたい気持ちもよくわかる。しかし、それでは事態の改善は望めない。障害者は生きているだけで頑張っているのだから「それ以上頑張らなくてもよい」という優しいひとがいる。しかし、頑張らないと関節や筋肉、筋は縮んでしまう。体は歪んでしまう。座ったり寝たきり状態が長いと皮膚が破れ肉が腐り大変なことになる。優しさや人の助けで、脳卒中はどうにかなるほどたやすくはない。

脳卒中の世界は究極の平等の世界である。学歴も出自も門閥も一切関係ない。高名な政治家も輝かしい経歴の持ち主も。暴力団の親分も土工も平等に後遺症と戦わねばならない。発病から半年を経るとPT・OTも何の役にも立たない。彼らが言うのは所詮画餅である。絵に描いた餅は食えない。文献を読んで得た知識など役に立たない。本人が勉強し工夫するしかない。彼らを頼りすぎると依存度ばかりが強くなりリハ業界の飯のタネにされるのが落ちである。

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まこっちゃん

まこっちゃん

元自動車会社工員、配管工、自動車洗車場、呉服担ぎ屋、土木作業員

昭和61年、琉球大学キャンパス内で架橋工事中に突然脳内出血に倒れる。
以降左半身不随の後遺症が残り1種2級の身体障碍者となる。

昭和64年(平成元年)リハビリセンターで入所中に知り合って交際していた女性職員と入籍。
福岡県粕屋郡古賀町(現古賀市)へ転居。彼女が働き、家事全般は夫がする暮らしを始める。生活費は折半。いわゆる「主夫」となって今に至る。

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