脳卒中、かまい過ぎは禁物。

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昭和60年1月16日。僕は突然脳内出血で倒れた。琉球大学のキャンパスの工事現場である。。34歳と10ケ月だった。当初はノンビリしたもので、歩けるようになったら失業保険でも貰いに行こうか。などとベッドの上で考えていた。実家のある福岡の広川町へ転院してから事態の深刻さを知ることになる。足は突っ張ってブルブル震え、手はL字型にひん曲がっている。今考えるとバカみたいだけど。靴下を片手で履くのに苦労していた。
 
親戚の者に仏教系の熱心な信者がいて、これを読みなさいとパンフレットを渡されたが、とても読む気になれない。24時間で付き添いがいるので母が主に付き添った。夜になると親父が付き添う。脳卒中患者の大部屋だから。タン吸引機のシューという音や、患者のいびきがうるさい。と、短気者の親父が看護師に文句を言い出すので。僕は身の縮む思いであった。弟と妹は、中卒土工、独身のロクでもない兄の付き添いを嫌がる。俺は、仕事がある。私も仕事よ。と言い争いをしていた。そんな昭和60年2月17日の夕刻だった。
 

田中角栄元総理が脳梗塞で倒れました

とラジオのニュースで流れた。貧困から身を起こし、一代で総理大臣に上りつめた男。豊臣秀吉の再来と言われ、今太閤とも呼ばれた人物である。状態がわからないので「へー」という思いで聞いていた。
4月になるとリハビリ病棟を備えた筑後病院へ転院した。ここは完全看護なので付き添いは必要ない。時々見舞いに来るだけでよいから家族は肩の荷を下ろした。このころになると田中角栄元総理の状態がつまびらかになっていく。右麻痺だから失語症があると報じられた。
 
11月になると福岡県リハへ入所した。角栄氏が地元新潟へお国入りする様子がテレビで流れた。これでもかというぐらい顔が大写しされた。車いすに乗りユダレをダラダラ流して。支持者の声援に答えようとしても「あー」とか「うー」になり言葉にならない。あんなに大写ししなくてもよさそうに、そういう想いが強かった。
 
それから角栄さんは軽井沢にリハビリ専用の病棟を建てた。医師と看護師が常駐しているとも報じられた。中国から有名な鍼灸師を呼んだり、有名な大学教授の診察を受けたりもしたが焼け石に水だった。この時に僕は思った。一般病棟に入院した方が良いのに。一人では孤独地獄に落ちてしまう。同病相憐れむではないけれど。同じ症状を抱えた仲間といることで孤立感から解放され、リハビリを頑張ろう、という気にもなれる。しかし、彼の立場がそれを許されない。有名人の泣き所である。
 

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特に失語症の場合はセラピストの治療には限界がある

どんなに苦しくても他人と話すことが失語症回復への近道だ。セラピストを頼りすぎるのも禁物である。本人の意欲が一番大切だ。かまい過ぎると甘えが出て楽な方へ逃げる。かといって強く突き放すと。本人が凹むし、さじ加減が難しい。
 
それから1年半後に僕もリハビリセンターを出ることになる。退所したらどうするかの決断が必要になる。身寄りのない人は速攻授産所入所が決まるが、そうでない人は自宅に戻る。僕は鶏を飼うことにした。当座の費用がいるので、思案の末に、同病相憐れむに頼って。角栄さんに100万円の無心をした。そういう手紙を出した。
 
無視されると思っていたが、きちんと断りのハガキがリハビリセンターへ届いたのである。見ず知らずの人にもキチンと対応してくれるところが、角栄さんの人たらしと言われる魅力の一端だろう。残念なことに彼は持病の糖尿病が悪化して足を切断したと報じられ、その後亡くなられたと知る。
 
一般病棟で普通のリハビリをしていたら車いすの生活でもできたと思われる。車いすでも存命で。意思の疎通ができれば政界にも影響力を行使でき、政界の形もまた違ったものになっていたかもしれない。昭和の傑物の落命が残念でならない。脳卒中の患者はあんまり構い過ぎると結果は逆になる。
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まこっちゃん

まこっちゃん

元自動車会社工員、配管工、自動車洗車場、呉服担ぎ屋、土木作業員

昭和61年、琉球大学キャンパス内で架橋工事中に突然脳内出血に倒れる。
以降左半身不随の後遺症が残り1種2級の身体障碍者となる。

昭和64年(平成元年)リハビリセンターで入所中に知り合って交際していた女性職員と入籍。
福岡県粕屋郡古賀町(現古賀市)へ転居。彼女が働き、家事全般は夫がする暮らしを始める。生活費は折半。いわゆる「主夫」となって今に至る。

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