田舎の少年、プラモに熱中する。

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中学生の頃はプラモデルに夢中だった。1964年ごろの事である。ベトナム戦争があったりビートルズが来日したり。全学連というコーコーセイが学生運動に参加し、ゲバ棒をふるったり火炎瓶を投げるようすがテレビの画面に流れたりしていた世相のころである。テレビは白黒だった。

航空雑誌が教科書

其のころの愛読書は航空ファン、丸、航空情報、子供の科学、模型とラジオ。といった類で、田舎の子供が読むような本ではなく、村では白い目で見られていた。学校の勉強はまったくしないで飛行機関係の本ばかりよんでいるので、算数や理科、英語、社会などは常にテストは10点~20点の成績で、特に算数はほぼ零点であった。

小学6年の頃、学校の図書室にあった世界の航空図鑑とかなんとかの本に夢中で、掲載されていたP51Dムスタングのジュラルミンの機体にあこがれを持って眺めていた。飛行機がどうやって飛ぶのかもわからず、ただただ恰好いいなあ。そういう感覚である。4キロ離れた福島という街の模型屋へ、自転車で足繁く通った。福島という街は江戸時代は幕府の天領で、代官所がおかれていた。のにち福島から八女市となり、堀江貴文という青年実業家の故郷としてしられるようになる。

プラモガイドとの出会い

そういう時代背景の中、ニキビ面の少年は福島の桐明書店で一冊の小さな本と出合った。「プラモガイド」である。田舎の少年にとって衝撃の出会いであった。村には雑貨屋しかなく、漫画本やプラモデルも数個がおかれていたが、興味を示す者はほとんどいなかったので大興奮したことを覚えている。

ネットで調べているとプラモガイドは発行され続けていることを知り大変懐かしく思え、こうして書き込みをしている。レベルから1/72スケールのi16が発売され、近日入荷という広告を見た時は小躍りした。
ゼロ戦や隼、グラマンやムスタングなど著名な機体がもてはやされ、異端の戦闘機i16がプラモになるなんて想像だにできないことであった。

オタクの語源

中学を出るとトラックの荷台を作る会社に入った。寮生活なのでプラモデル作りなどはできない。東京の町田へ転勤させられてヤキソバというものを初めて食べた。世の中にこんなにおいしい食べ物があるのかと思った。それから職を転々としながら色々な遊びを覚え、次第に模型作りから遠ざかった。

模型作りは止めたものの飛行機への関心はくすぶりつづけていた。時々航空雑誌に目を通していた。長じてからも田舎には模型ファンはほとんどいなくて、変人扱いされていた。模型ばかり作っていると人との交流がニガてとなる。特に農村では酒席の付き合いが上手でないと生き辛い。酒飲みにプラモの話など通じるはずもなく会話がニガ手となる。

漫画を描くことに興じる連中も模型作りの連中も総じて他人を名前を呼べないのである。雑誌の投稿欄などでお宅の作品は、イマイチ塗装に実感が足りない」などと語り合っていた。漫画描きの連中が同人誌の作品展などで顔を合わせると「お宅は」を連発することからテレビがこの特徴を取り上げ「オタク族」などと報じるようになっていく。

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最後に

それからさらに歳月は流れ、34歳の時に工事現場で脳内出血に倒れた。以来、左半身不随の身となり、模型作りはおろか歩行にも著しい障害が残るようになり。模型の自主製作は不可能となり、他人の作品を眺めて楽しんでいる。近年は模型用のエンジンの発達がすばらしく、本物と見間違うほどの出来栄えには驚嘆せざるをえない。各モデラーの作品を見ているとおおいなる創作意欲をかき立てられるが、身の不自由さはいかんともしがたく、動画鑑賞などで楽しんでいる。とくに、海外モデラーのラジコンスケール機のすばらしさに魅了されている。

 

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まこっちゃん

まこっちゃん

元自動車会社工員、配管工、自動車洗車場、呉服担ぎ屋、土木作業員

昭和61年、琉球大学キャンパス内で架橋工事中に突然脳内出血に倒れる。
以降左半身不随の後遺症が残り1種2級の身体障碍者となる。

昭和64年(平成元年)リハビリセンターで入所中に知り合って交際していた女性職員と入籍。
福岡県粕屋郡古賀町(現古賀市)へ転居。彼女が働き、家事全般は夫がする暮らしを始める。生活費は折半。いわゆる「主夫」となって今に至る。

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