脳卒中者の昔、自動車洗車場で

スポンサードリンク

 

19才の時、麻雀仲間のペーさん(北川)から自動車のワックス掛けのパーフェクトセンターで働かないと持ちかけられた。月給は4万円という。おんぼろ車の支払も終わったので転職することにした。

特殊なワックスでパーフェクト処理を施すと1年間はワックス掛けが不要といううたい文句である。費用は1500CCクラスで8000円。2000CCクラスで10000円だ。経営者は久留米市に本拠を置く近藤源次郎、31歳のやり手だ。本業は呉服商で屋号は「近藤屋」という。従業員10名の有限会社で、副業としてパーフェクト処理業に手を広げた。


しかし、1年後にこの事業は頓挫する。儲からないので、福岡県小郡市の大森電工という所に売りつけてしまった。3人いた従業員のうち2人は新しい経営者の下で働く事に同意した。僕は呉服部へ来ないかと誘われた。月給45000円に釣られて頷いた。

スポンサードリンク

服装がヤバイ

呉服の販売なんて全くの未経験である。が営業用の車がトヨタクラウンのハードトップやコロナマークⅡのハードトップと言った具合だ。若者の心を捉える営業車に惹かれたのである。

「山下君、その服装をなんとかせないかんね」

ブレザーに先の尖った魔法靴を見て先輩が注意した。歳のちかい先輩に連れられて八女市の堀洋品店に連れて行かれた。「近藤屋」ご用達のショップだからツケが利いた。店長に進められるままアイビールックのブレザー、スラックス、ボタンダウンのシャツ、スリッポンの靴を揃えた。

最初はライトバンで湯のし屋、仕入先の問屋、仕立屋回りなどの雑用からやらされた。1ケ月後には博多帯と大島紬の入った段ボール箱をライトバンに積んで売って来いと言われ仰天した。

ど素人が高級呉服の販売などイキナリ始めて売れそうにないのが普通である。しかし、僕は意外な才能を発揮した。初日から博多帯を1本売ってきたのである。これには呉服屋の大将も驚いた。それからはメキメキ腕を挙げて2年後にはトランペットクラウンのハードトップがあてがわれ、熊本支店長に抜擢された。支店長と言ってもマンションに事務所があり50代の女事務員がいるだけで、僕が一人で熊本を営業に回らねばならない。

24歳になり服装も垢ぬけてきた頃、中学の同級生だったペコちゃんが、川瀬の3号線沿いで「サンラビ」という喫茶店を開いた。八女郡界隈にはまだ喫茶店というものが少なく近在の若者らが足繁く通い始めた。

勤めていた呉服の大将担ぎ屋と同時にパーフェクト処理というワックスがけ不要の仕事に乗り出した。僕は自動車洗車場へ出向させられ洗車場の作業員になった。1年して儲からないとわかると、担ぎ屋の親方は、僕ら従業員を付けて、小郡の大森電設に転売した。僕は洗車場は嫌だといって呉服の担ぎ屋に戻った。

最後に

当時は誰もが自動車への強烈なあこがれがあった。インターネットが発達した今、自動車に乗って遠出をするなんていう気になれない。排ガスで環境に悪いし税金や保険、バカ高い燃料代、おまけに歩かないので慢性的な運動不足。時代をけん引してきた自動車もいずれ淘汰されてゆくのかもしれない。産業革命で、蒸気機関に仕事を奪われた馬のように。

 

 

The following two tabs change content below.
まこっちゃん

まこっちゃん

元自動車会社工員、配管工、自動車洗車場、呉服担ぎ屋、土木作業員

昭和61年、琉球大学キャンパス内で架橋工事中に突然脳内出血に倒れる。
以降左半身不随の後遺症が残り1種2級の身体障碍者となる。

昭和64年(平成元年)リハビリセンターで入所中に知り合って交際していた女性職員と入籍。
福岡県粕屋郡古賀町(現古賀市)へ転居。彼女が働き、家事全般は夫がする暮らしを始める。生活費は折半。いわゆる「主夫」となって今に至る。

まこっちゃん

最新記事 by まこっちゃん (全て見る)

スポンサードリンク