楽しい障害者ライフ

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S56土工になる

S60/01/16沖縄で脳出血

s60/04筑後病院

S60/11/01福岡県リハ

退所後の方針は実家へ戻り養鶏を決意。

ハビリセンターで1年半の訓練期間が終了し、1987年3月31日退所した。少しでも収入になるようにと、密かに鶏を平飼いしようと思っていた。実家の空き地で鶏を飼いたいと切り出した。これはセンターにいるときから考えていたことである。週刊誌で鶏の放し飼いをしている人の記事が紹介されていたのである。それを読んでやってみたいなあと漠然と思っていた。
「そげなこつは止めとけ。匂いがして臭かけん。近所から苦情が出るぞ」
父は何でも反対した。昔からそうなのだ。車の免許を取るときも。自動車を買うときも。なんでも反対である。ま。これはどこの親もそうであるらしい。親の言うことを聞け。田舎ではこの一点張りである。
「最初は少しから始めるけん、よかろうもん」
すると弟がこう言った、
「父ちゃん、兄ちゃんもあげん言いよるし、リハビリち思うとけばよかやんね」
それから親父は何も言わなくなった。
設計図も何も無い。すべておうまん(適当)である。実家のネギダレ(軒下)に置いてある廃材を集めて鶏舎作りにかかった。猫の額ほどの空き地に基礎にするコンクリートブロックを四隅に埋める。ブロックの穴にちょうど良い丸太を差し込んで4本の柱を立てた。これに梁で4本の柱をつないで、トタンを被せて周囲を金網で囲い、出入り口と給仕口を作れば良いのだが、これが想像を絶する作業になった。

装具をはいてブロックを運ぶだけでも大変な労力を必要とした。片手でブロックを持ち上げるのは、土工だからお手の物だ。しかし、ブロックを片手に下げて歩き始めると麻痺足が内反してしまう。健側の右足に体重を乗せ左の麻痺足は子供自転車の補助輪のような感じで慎重に慎重に歩を進めた。麻痺足を上げると足の裏が内返りをするが、着地すると緩むのであるからなんとも不思議だ。

梁と柱を釘で止めることがどうしてもできない。柱と柱に梁を乗せて釘打ちすることが、一人だと難しいのだ。これはたとえ、両手が使えたとしても不可能なことなので、一方を母に押さえてもらって固定した。金網張り、戸口の建てつけ、鶏がエサを食べることの給仕口など、一人ではどうしても出来ない所の造作は典子が休みの日手伝きた。当初ひよこを入れていく育すう箱も作らねばならなかった。そうこうするうちに母が入院していった。

5月に入ると鶏小屋も完成し、申請していた障害年金の受給も決まった。初回金の振込みがあったのでこれをはたいて軽トラックを購入した。車がくると、ちかくの孵卵場でひよこ20羽を入手し、さらに50羽を追加し育て始めた。


S63/05養鶏開始

スズキマイティーボーイ購入

 

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S63/12産卵開始

 

S63/12結婚で養鶏断念

S63/12/古賀町花鶴丘団地へ転入

 
S64/01/08日元号が平成と変更される。

H01/02/05軽井沢で挙式

 

H01/02主夫となる

 

ネギを刻む

左手の代わりに重しで
ネギを押さえる

その他いろいろ料理の時間

 

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桃の皮は熱湯にいれて1分ぐらい転がすと片手でも簡単に剥ける。

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まこっちゃん

まこっちゃん

元自動車会社工員、配管工、自動車洗車場、呉服担ぎ屋、土木作業員

昭和61年、琉球大学キャンパス内で架橋工事中に突然脳内出血に倒れる。
以降左半身不随の後遺症が残り1種2級の身体障碍者となる。

昭和64年(平成元年)リハビリセンターで入所中に知り合って交際していた女性職員と入籍。
福岡県粕屋郡古賀町(現古賀市)へ転居。彼女が働き、家事全般は夫がする暮らしを始める。生活費は折半。いわゆる「主夫」となって今に至る。

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