親鶏孵化

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昔鶏を飼っていた。障害者のサークル活動の一環である。古賀市において若年性在宅脳卒中の機能訓練教室が行われたので参加した。1999年のことだった。この教室は、当時の厚生労働省が、在宅の若年性脳卒中者のリハビリ対策の研究目的で始まった。そのモデルケースとして古賀市が選ばれた。国の事業なので、予算がつけられたので、臨時のPT OTが雇用されボランティアの募集も行われた。送迎用のリフト付きマイクロバスも用意され、専任の運転手もつけられた。

 

1年の訓練期間が終了し、グループは、今後自主的なサークル活動へ移行してくれ告げられた。僕は素直に解散しようと言った。しかし、行き場のない一部の障害者たちは解散はしたくないと言い出した。福祉センターサンコスモの玄関ロビーに集まって、グダグダとおしゃべりをするだけだ。僕は面倒になって、再度解散するべしと述べた。すると反対の声があいついだ。じゃあ、何を目的とした会にするかというと、誰も押しだってしまう。誰かに旗振り役になってもらい自分たちは後をついてゆくだけということで、常に誰かに車いすを押し障害者はてもらい、自分は何もしない、いやできないという。(機能訓練教室でみかん狩り)

まあ、そういう障碍者の気持ちはわからないではないので、じゃあ、鶏でも飼おうかと切り出した。するとみな下を向いて押しだってしまう。しかたがないので、みんなでパソコンの勉強をしようと提案した。これも黙ってしまう。自分の古いパソコンを持ち込んでみたが、誰も触ろうともしない。インターネットも黎明期であり、パソコンを持っているひともまばらだった。

とりあえず「さーくるWAKABAという名称を付けて、サークル活動をすることにした。サンコスモの喫茶コーナーでグダグダしているのにも飽きてきたので、裏門の空き地で鶏を飼おうと決断をした。どうせ誰もやらないだろうし自分一人でやることになるのを覚悟した。

前置きが長くなった。

ヒヨコを朝倉のゴトウ孵卵場 から買ってきて育てているうちに鶏に成長し、卵を産むようになった。卵をサンコスモで売ったりしていた。そんな折、サンコスモで理容室をしていた竹本さんが、1羽のチャボをくれた。黒地に白のまだら模様である。ボランティアの山下さんに作ってもらった鶏小屋にいれておくと地面に座って動かなくなった。ははあ、これが座ったといわれる抱卵の態勢だなと直感した。チャボは自分が生んだ卵でなくても温めてヒナを孵すと聞いていたのでコスモス館で、有精卵を3個買ってきた。地面に穴を掘ってくぼみを作り、そこに枯草を敷いて卵を置いた。この上に鶏を座らせればならないが、片手ではできないので竹本さんを呼んできてチャボを座らせた。

鶏は座っていると動かないので側に水と餌を置いておくのである。鶏が落ち着くように鶏舎の中を暗くして毎日餌やりに励んだ。サンコスモと住まいのある団地まで2キロはあるだろう。台車に茶箱を括り付けてゴロゴロ引いて往復するのが日課となった。買い物もこれでいった。

 

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チャボは時々首をお腹の下に突っ込んで嘴を動かしている。これは転卵といって卵を転がして均等に温めているのである。この作業を時々おこなう。こうして20日目になるとコツコツという音が聞こえてくるそうだ。これは「はしうち」といってヒヨコが卵の中から殻を突くことだ。こうしてもうすぐ出てくるよと親鶏に合図を送っている。ヒヨコが自力で殻を割って出てこれないときは親がくちばしで突いて手助けをする。

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1時間見ていたも飽きない

21目になるとピヨピヨというかすかな鳴き声とともにヒヨコたちの愛らしい姿におめにかかれる。親の背中に乗ったり羽に隠れたり。親が地面を突けばヒヨコも地面を突く。餌を食べればヒヨコも同じことをまねる。

 

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まこっちゃん

まこっちゃん

元自動車会社工員、配管工、自動車洗車場、呉服担ぎ屋、土木作業員

昭和61年、琉球大学キャンパス内で架橋工事中に突然脳内出血に倒れる。
以降左半身不随の後遺症が残り1種2級の身体障碍者となる。

昭和64年(平成元年)リハビリセンターで入所中に知り合って交際していた女性職員と入籍。
福岡県粕屋郡古賀町(現古賀市)へ転居。彼女が働き、家事全般は夫がする暮らしを始める。生活費は折半。いわゆる「主夫」となって今に至る。

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